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「俺の傷は、事故で負ったもの以外増えていない。アスカが抵抗してくれたのなら、説得なり脅迫なりの為に、どこかへ連れ去られたはずだ」
「す、……少し、お待ちになって! オルト!」
 深い困惑と動揺に視線をさまよわせ、クローナは悲鳴のように婚約者を呼んだ。
「いえ、お兄さまでも……、まさか、アスカがそうだと、ご存じでしたの!?」
「落ち着け。そうじゃない、前は確かに、アスカは殿下を傷つけることなんか出来なかった。だから、何でかわからねーんだ」
「そんなことって……」
「どうやら、『黒』だの『失黒』だのには、誰も知らないことがあるらしい」
 言い、ジルギールは短く、だがひどく物騒な笑みを浮かべた。
「今まで誰も知ろうとしなかったせいか、異世界から来たアスカが特別なのかは知らないが、今はどうでもいい」
 吐き捨てるような声音に、ラギははっきりと怖れを感じた。見れば、オルトまでもが指先を細かく震わせている。
「『失黒』の居場所は?」
「わ、……判りませんわ。軍が『失黒』を保護したと、安全な街へ運ぶとだけは噂でありましたけど、それ以上は」
「そうか」
 頷き、立ち上がる。その、ジルギールの唐突な行動に、ラギとユアンは慌てて制止の声を上げた。
「殿下、どこへ!?」
「決まっている。判らないなら、知っている者のところで聞けばいいだけの話だ」
「ですが、もう城門は閉じられております!」
 もっともなユアンの指摘は、しかし、低い嗤い声をもってたたき落とされた。
「閉まっているなら、どうだと言うんだ?」
「なりません、殿下! そのようなことをされては……!」
「グライセラに問題が降りかかる、か?」
「……その通りです」
 『黒』が国家間の取り決めで定められた事項に則って行動していたからこそ、今まで彼を送り出したグライセラは責任と非難を躱していたのだ。それは、彼が勝手な暴挙に及んだ瞬間に、ツケとなって押し寄せてくるだろう。規定通り三色揃えて城門を叩いたところで、開門時間を過ぎた今ではどうしようもない。たとえ、町に入ることが出来たとしても、『失黒』の行方を知るには、脅迫という犯罪行為が必要となる。
 ジルギールを行かしてはならない。説得するように、ラギは言葉を重ねた。
「せめて、明日の朝までお待ちください。私たちが、必ず聞き出して参ります」
「そうです。アスカが『失黒』であれば、保護されても害されることはありません。ある意味、安全であると言えます。最悪、『失黒』として、我々を追い返すために、遣わされるでしょう。少なくともそれまで無事であることは確かですから、多少、時間をかけても確実に進むべきです」
「時間なんか、ない」
「いいえ、まだ、もう少し猶予は、」
「忘れたのか!」
 ユアンの言葉を遮り、ジルギールが、低く唸るように言葉を吐き捨てる。
「アスカには、危険な兆候が出ている。透明の髪があるんじゃなかったのか」
「!」
「あり得ない。髪が色を無くすなんて、アスカは生きながら屍体に近づいているってのか!? 無茶だったんだ、異世界の生物を召喚するなんて。だから、限界が来ている、そうじゃないのか!?」
 ラギは知らず、奥歯を噛み締めた。
 術を行使する源が、髪にあるわけではない。しかし、力の性質や強さが反映していることは確かである。飛鳥の世界では、加齢と共に髪の色素が抜け白くなっていくようだが、少なくともこの世界では術を使う力が一定であるのと同様、生涯、髪色が変化することはなく、染めることも出来ない。故に、透明なるとすれば、人がその生命活動を停止した後、ということになる。
 極度の疲労による現象、という説明は、無論嘘ではない。だがそれはせいぜい数本程度の話である。飛鳥のように髪のひと束が色を無くすことは、まずあり得ないのだ。
 飛鳥の体の中で、何が起こっているのかはラギにも判らない。だが、悪い兆候であることだけは確かった。
「一刻も早く、術の力なんか必要としない、元の世界に戻してやるしか、死なせない方法はない。だから、アスカが俺を襲うよう言い含められてやってくるなんて、悠長に待っている時間はない」
 正論だ。だが、ラギは一度固く目を閉じた。そうして、自分の心に叛すると自覚しながら、ジルギールの怒りを買うと確信を持ちながら、敢えてその言葉を口にする。
「切羽詰まって『ない』のは、あくまでアスカの時間です」
「なに……」
「殿下がここまで旅を続けられたのは、アスカを元の世界に戻すということが目的ではない。それは行程の中で、アスカに対する罪悪感から、二次的に派生した目的です。殿下が本来の目的と達するとするなら、今、皆の目が新たに現れた『失黒』に向いている間に、一気に王都へと向かうべきです。『失黒』も所詮人間、ましてやアスカがそれというなら、襲い来たとしても、ねじ伏せるには容易いでしょう。なんら、障害ではありません」
 この科白には、ジルギールよりも先に、クローナが悲鳴と非難の声を上げた。
「お兄様……! なんてことを! アスカを見捨てると仰るの!?」
「その通り」
 言い切り、ラギは吐き気を伴うような恐怖心を抑え、ジルギールに正面から向き直った。
「アスカを気に掛けるあまり、あなたの時間とチャンスがなくなるなど、本末転倒。多くの労を割き、送り出してくださった陛下やレオット様の心遣いまでもを無にされるおつもりか」
 語尾が震える。目の端に映るユアンやクローナの顔ははっきりと蒼褪めていた。おそらく、自分もそう大差ないだろうと、ラギは深呼吸を繰り返す。
 本当のところを言えば、ラギはひとつ言葉に嘘を混ぜている。ジルギール自身にもおそらく、他人のことにかまけている余裕はない。このところ頻発する「暴走」はその現れだろう。いくら、飛鳥という弱い存在が引き金になっているとしても、その間隔はあまりにも短い。これまでは少なくとも、多少の感情の高ぶりで暴走するほど、彼の自制心は脆くなかった。
 ――残された時間は、思った以上に少ないのかも知れない。或いは、飛鳥がそれに拍車をかけているのか。
 だが、その判断をおくびにも出さず、ラギは努めて冷静に言葉を繰り返した。
「王都へ向かうべきです」
 ジルギールの目は、静かだった。だが、凪ではない。
「言いたいことは、それだけか」
「……はい」
「それなら、」
「殿下!」
 ジルギールの宣告を遮るように、オルトが制止の声をもって割り込んだ。ラギを強引に引き、一歩後ろに下がらせてからジルギールの正面に立つ。四対の視線を一斉に受け、僅かに怯んだ様子を見せながらも、彼は努めて抑えた声で言葉を継いだ。 
「俺は、アスカを追うことには異存はありません。これは殿下の旅だ。納得いくようにすればいいと思います」
 ユアンが何か言いたげに身を乗り出すのを、ラギは目で制した。オルトの発言は追従のようにも聞こえるが、そうではないだろう。
 躊躇い、一拍。だが迷いを振り切るようにオルトは口を開く。


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