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 (10)

 緊張が、その場に並んだ全ての兵の体を貫いた。不自然なまでの直立不動の姿勢。一段高いところから見下ろし、スエインはいささかの呆れをもって目を細めた。そうして、自分の方へ向かい来る男を眺めやる。
「ご苦労」
 敬礼の壁をほぼ義務的に労いつつ歩くその姿、重々しく、言うなれば傲岸不遜。立派な体躯とそれに見合った厳めしい顔立ちは自信に満ち、目の前に並ぶものを圧倒する。
 『失黒』の発見よりほぼ二日。セルリア軍最大規模の第一師団をまとめる男、グエン・エシュードが、学術都市リーテ・ドールへ到着した。指令代行であるスエイン以下、勤務中の者を除く全兵が、研究施設前の広場に集合している。スエインにしてみれば、明らかに無駄な労力であり時間であり、馬鹿馬鹿しいことこの上ない出迎えだが、殆ど義務化した行事である以上、軍人である彼に参加拒否権はない。
(どうせ、少数派だしな……)
 心中でぼやき、不穏に動きかけた表情筋を制御して、スエインはごくごく真面目な顔を取り繕う。 
「ご到着、お待ちいたしておりました」
 本人を前にして、スエインは深々と腰を折る。儀礼とも言えるが、待っていたこと自体は、満更嘘でもない。早く誰かに、重苦しいことこの上ない、厄介な責任を押しつけたかったのだ。
「『失黒』はどうしている」
 開口一番、要点だけを簡潔明瞭に、といえば聞こえはいいが、他人の気持ちを全く斟酌しない言葉にスエインは、伏せた顔を引き攣るほどに歪めて嗤った。相変わらずだと思い、相入れない感情を再認識する。つき合いは長いが、年月が埋めた役職上の隔たりと互いに感じる好意の曲線は、綺麗に反比例を描いていた。スエインは上から感じる威圧感に、相手の過去と現在を思い浮かべる。
 ――グエン・エシュード。三十数年前、かつての『黒』の来襲の折り、何十人との部下を亡くし自身も深手を負いながらも、最後まで『黒』に立ち向かった勇者として畏敬を集めている。まだ若い兵などは、彼に憧れて入隊した者も多い。他者を寄せ付けない雰囲気は概ね好意的に受け取られ、親衛隊化、大げさに言えば神格化している部隊もあるほどに支持する声は高い。
 鍛え抜かれた体と物事に動じない的確な判断力と行動力、それらが偽物でないことはスエインも認めるところではあるが――
「スエイン」
 呼びかけに、スエインの意識が思惑の海から浮上する。
「いつまでそうしている」
「団長のお許しがなくば」
 グエンはふっと、鼻で嗤う。不快と嘲りを足して皮肉で割ったような感情が、至近距離の空気を震わせる。
「『失黒』はどうしたと聞いた」
 冗談の通じない男だなと思い、そこが合わないのかとスエインは片頬を歪めた。むろん、そんな思いなどはおくびにも出さず、神妙な声を返す。
「施設内に保護しております」
「そんなことは知っている。今にも『黒』の元へ遣れるのかと聞いている」
「怪我の療養を致しております」
「丸一日以上もか」
「万全を来したく……」
 途中、わざとらしく言い淀む。この場で言うにはばかる事があるのだと、さすがに伝わらぬ相手ではない。
「……聞こう」
 鼻を鳴らし、グエンは施設の中へと勝手に歩き去る。その迷いない足取りに眉をひそめながら、スエインは解散の命を部下を呼ぶ。
「この場は解散だ。それぞれ、持ち場と勤務に戻るように伝えてくれ」
「師団長のお言葉があるかと思っていましたが……」
「『黒』に関することは緊急扱いなんだよ。慰問じゃるまいし、構ってられねぇってとこだろ」
 尊敬する先達の演説を期待していたらしき部下に念を押し、スエインは建物の中に消えた上司の後を追った。我が物顔で堂々と入っていったグエンだが、この施設は見かけ以上に複雑な内部構造をしている。あらぬ方向に向かってしまったのではないかとスエインは、危惧と期待半々の面もちで上司の姿を探した。
「師団長は、どちらに向かわれた?」
「会議室の方へ行かれましたが。お引き留めした方が良かったでしょうか?」
「……いや」
 スエインはそれとわからぬ程度に首を傾げた。去り際の迷いない足取りといい、グエンはどうも、この施設を熟知している様子がある。
 足を速めスエインは、上司が待つであろう会議室へと向かう。
「遅い」
「……申し訳ありません」
 言い、スエインは大きく息を吐く。グエンの無言の指示を受け、伝令らしき兵がそそくさと出ていくのを見届けてから、彼は若干の非難を滲ませて言葉を続けた。
「師団長は、この建物をご存じでしたか」
「国の重要施設だ。知らぬわけなかろう」
 そういう意味ではない、と言いかけ、スエインは刺激される記憶に眉根を寄せた。そうして浮かび上がったかつての会話に得心する。
「……ルエロ様には多分のご助力をいただきました」
「そうか」
「『失黒』の怪我の治療などにも、手をお借りしております」
「ふん、奴が、か」
 納得とも揶揄ともつかぬ声で、グエンは顎をしゃくる。
「だが、そうなら、とうに治療など終わってるだろう。『失黒』を連れてこい」
「しかし、エシュード様」
 スエインはあえて上司の名を呼び、注意を引く。
「まだ治療室からは出ておりません。『黒』も今のところ近くに来ている報告はなく、今しばらく、治療に専念した方がよろしいかと」
 この言葉は、事実ではあったが、スエインの本音ではなかった。グエンにしてみれば『失黒』は貴重な、しかしあくまで駒のひとつに過ぎない。故に、多少の体調不良は勿論、『失黒』の抱える立場と感情などには、全く気に止めもしないだろう。
 だが、とスエインはグエンから見えぬ方の手を握りしめる。
(……あの『失黒』に、『黒』を討つのは無理だ)
 身体的な不利が問題なのではない。精神面で強く不安が残る。『失黒』である女を、彼女の世界から勝手に呼び、一方的にこの世界の事情と最も忌むべき部分を押しつけたのはセルリアだ。恨みこそあれ、一時的に保護してくれたともとれる『黒』の一行を害するなど、協力してもらえるわけがない。牢での一件をして、スエインはそう強く確信していた。
 故に、女に期待できることがあるとすればそれは、あくまで取引材料として、ということに限局される。
「それよりも、『失黒』を盾に、『黒』を撤退させる交渉を持つべきです」
「……」


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