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「幸いと言うべきか、『失黒』の女には、『黒』も多少気を許しているようでした。彼女の安全と『失黒』の能力を盾にすれば、討つことはできずとも、グライセラへ引き返させることぐらいは可能でしょう。体調を崩し立つこともままならない女に頑健な『黒』を傷つけさせる賭を思えば、取引材料として有効に活用すべきです」
「取引に応じなければ、どうするのだ?」
「それこそ、――その時こそ、『失黒』の力を用いるしかないでしょう。幸い我が国には、ふたり居ります」
 スエインが言い終えるのを待たず、グエンは嘲笑にも似た笑みを浮かべた。不意に感じた悪寒に、スエインは一歩後退る。
「あの腰抜けに何ができる」
 ラゼル・リオルドの事だろうか。
「奴はあの『黒』を討ち取った瞬間に頂点に上り詰め、一気に下ったような男だ。奴には到底、今の『黒』に向かう気力などなかろう」
「しかしそれでも、我々の通りもしない剣よりは、少しでも可能性があります。ましてリオルド様は新しい『失黒』などより遙かに修練を積んだお方です」
「修練など、無意味だ。そんなもの、どうとでもなる」
 一瞬、スエインは大きく目を見開いた。普段から訓練と鍛錬を欠かさない、職業軍人の鏡のようなグエンの言葉とは到底思えない。
 スエインが唖然とした理由に気づいたのだろう。グエンは僅かに表情を緩めると、からかいをまぶした声音で部下をたしなめた。
「特殊論だ。『黒』の化け物じみた力に常識で対応してもしかたなかろう」
「それは……、しかし、『失黒』に『黒』を討たせるにしても、その状況を作り上げるのには、やはり何十人、いえ、何百人もの兵を犠牲にしなければなし得ないと考えます。……現に、あの時はそうでした」
 脳裏を過ぎた記憶が、スエインの声に苦いものを含ませる。
「我が国は、あれから完全に立ち直ったとは言い切れません。周辺の国への備えもあります。従って、『黒』にまともに対峙することは避けた方が良いと思います」
「もっともな意見だ」
 肯定。しかし、グエンの声と表情には、スエインの意見を認めた様子は欠片にも見あたらなかった。
 何故、と問うスエインを見つめ、グエンはゆっくりと口を開いた。
「『失黒』の女を、操作すればいいだけの話だ」
「操作……?」
「お前の報告書が正しいとすれば、女は能力云々以前に、感情の面で『黒』を殺すことはできんだろう。信じ難いところだがな」
「嘘の報告はしません」
「であれば、女の感情など邪魔でしかない。必要なのは、『黒』を傷つけることができる肉体だ。ならば、そうしてしまえばいい」
「! それは、しかし!」
「暗示でも不可能だと言う気か? お前は、暗示などよりももっと確かに肉体を利用する手段を知っているだろう」
 何を、と脳裏を占めた一瞬の空白。しかし直後、グエンの言葉に触発された記憶と情報が、一挙に空白地帯になだれ込む。そうしてスエインは、自分が選び出した答えの正体を認め、強烈な悪寒に身をすくませた。
 知らず、口元を手で覆い、かすれた声を絞り出す。
「……まさか、合成を?」
 意志の全てを失った、置物のような獣が頭を掠めていく。全くの思い違いであってほしいと願い、否定されることを大前提に顔を上げ、スエインはそこで言葉を失った。
 ――グエンの顔は皮肉っぽく歪み、口端に浮かべた笑みは、彼の言葉をはっきりと肯定していた。
 乾いた喉が、短く切ない音を立てる。
「……本気ですか」
「冗談で口にできることだとでも?」
「本気である方が、たちが悪いと思いますが」
「有効な手段だとは思わんかね? 女一人なら、『黒』も周囲も油断するだろう。殺意がないとなれば、よけいに気を緩めるはずだ」
「しかし、――しかし、いけません! そのようなこと……!」
「だが、『黒』は殺せる。お前もそう願っていると思っていたのだがな」
「願って、……ええ、そうです、それでも!」
 悲鳴にも似た声を上げ、しかしスエインはそこで言葉を詰まらせた。
 倫理的に、間違っている。人として、やるべき行為ではない。術の仕組みと狙いを思い出しただけで、吐き気がする。
 だが同時にスエインには、そうしてまでも『黒』を排除したいという気持ちもまた理解できてしまうのだ。セルリアの空の下で『黒』が息づくことのないように。それは、あの事件を知るもの達の悲願だった。――だからこそ、それを侵した今の『黒』は許し難い。
「……『黒』は憎いです。できるものなら、この手で殺したい」
 声を絞り出し、強く目を閉じる。腐臭を帯びた、しかし強烈な誘惑。グエンの甘美でさえある提案に頷きそうになる心を叱咤し、スエインは迷いを振り払うようにグエンを真正面から見つめた。
「だけど、彼女は違います。彼女は、本当なら何の関わりもなかった犠牲者です」
 自制力を総動員して、スエインは声の調子を整える。
「いくら『黒』に有効とは言え、彼女を滅茶苦茶にしてまで、そこまですることは、許されない。やはり――なにも、積極的に攻撃なんかさせなくても、彼女の身の安全を取引に出せば、『黒』は引くと愚考します」
「まさしく、愚考だ」
 即答。
「哀れみを垂れ流し、絶好の機会を逃すか」
「あの女がセルリアの人間なら、或いは何をしてでも『黒』を殺したいと願う者なら、躊躇いなどしません。しかし、彼女はこの世界の理から外れた存在です。『黒』などといったおぞましい存在を生かし続けるこの世界には、本来何の関わりもありません」
「だからこそ、どう使っても文句を言う者がなくて良いのだ。第一、放っておいても早晩、あの女は死ぬ。無駄死にさせる気か?」
「それは、しかし、身体組成が安定するよう治療すれば……」
「そんなもの、一時的なものに過ぎん。もともと、足りていなかったのだ」
「え?」
 何を、とスエインは眉根を寄せる。
「どういう、ことですか」
「この剣は鉄で出来ている」
 腰に履いた剣を軽く叩き示し、グエンは表情も変えぬままにスエインを見つめた。
「これを高温の炎の中に投じれば、当然剣としての形は失い、もとの鉄塊に戻ることになる。だがそれを鋳型に流し、鍛えることによって、今と同じ剣を作ることは出来る」
「それは……そうですが」
 異世界の女の話にどう繋がるのか。スエインの疑問を正確に受け取りつつも、グエンは答える気もないように話を続けた。
「では、ここに粘土の塊があるとしよう。腕のいい者であれば、この剣と寸分違わぬ形状の模型を作ることが出来るだろう。だが、それはけして剣と同じではない。何かを切ることも出来なければ、加工しない限り、時間と共に崩れさるだろう」
「……」


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