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 バックステップ。一瞬前までスエインが立っていた場所で、極めて正確に引き裂かれる大気。唸り、新たな軌跡が獲物の急所へと走る。寸での所で弾き返し、スエインは女から大きく距離を取った。
「嘘だろ……」
 額から頬に流れ落ちる汗。急激な運動を強いられたためではない。完全な冷や汗だ。しかし、命の危険ほどに恐れを感じないのは、女の変貌ぶりがあまりに驚愕に過ぎたためだろう。
 昨日まで、体が動かないと嘆いていた無力な女と同一人物とは、到底思えない。
「どうかね?」
 誇らしげでもなく淡々と、研究の成果に対しての批評を求めるように、ルエロはスエインに感想を強いた。
「まぁ、問題があるとすれば、攻撃パターンが単調であることだが、さすがに初見では判るまい」
「何なんだよ、これ……。冗談じゃねぇ」
「君の言いたいことは判る。君たちが血反吐を吐くほど繰り返してきた訓練の賜物と言える身体能力を馬鹿にされた気持ちなんだろう」
 緩く首を振り、スエインは息を乱してもいない女をまっすぐに見つめた。
「だが、心配しなくていい。先ほども言ったが、そう複雑な命令を実行することはできないのでね。例えば君がフェイントをかましてくれば、あっさりと引っかかるだろう」
「……違う」
 干からびた喉に無理矢理唾を流し込み、スエインはかすれた声を上げた。
「あんた、この女に何をやったんだ」
「合成、だよ」
「嘘つけ」
「命令通り動く獣なら、君も体験しただろう?」
「じゃあ、――じゃあ、なんでこいつはこんなに、苦しそうな顔をしてるんだ」
 スエインは苦いものを含んだように、きつく眉根を寄せた。
「体も震えてる。泣きそうな顔もしてる。――全然、違うじゃねぇかよ!」
「仕方ないのだ」
 低く、グエンの声が窘める。
「『失黒』の能力を失わないラインが判らんからな。あまり派手に、身体能力を重視した合成を行うわけにはいかんのだ。もともと、人の体は潜在能力の方が大きい。それを引き出せる程度、命令通りに肉体の力を極限まで使う、意志の制御ができれば問題ない」
「……っざけろ!」
 怒号。だがその場に居る誰もが、何の反応も示さない。スエインは大股で女に近寄り、だらりと垂れ下がった腕を掴みあげた。
 細い。その事実に顔をしかめつつ、ルエロに向けて非難の声を上げる。
「触ってみろ。気づいてるだろ、凄い熱だ。体に無理が来て、急激に炎症が起こってる」
「もともと、体力がないようなのでね。仕方ない」
「仕方ないわけ、あるか!」
 唸り、スエインは女に向かって語りかける。
「聞こえてるんだろ! 言えよ、痛いんだろ、苦しいんだろ!? 体に何されたか知らねぇが、てめぇの体だ、抗えよ!」
「――無茶を言う」
「お前にゃ言ってねぇ!」
 グエンは口を挟まない。ふたり、否三人のやり取りを咎めるでもなく外から眺めている。それがスエインには、余計に癪だった。
 奥歯を噛みしめ、スエインはルエロを睨みつける。――その横顔に、小さな囁きが漂い、耳を掠めた。
「……」
 聞こえない、と再び女に向き直る。
「……せ」
「何?」
「ころ、せ……」
 不自然に歪められた、泣き顔。
 スエインは、かける言葉を失って、ただ呆然と彼女を見つめた。ああ、とスエインは思う。
 ――同罪だ。彼女をこの世界に呼ぶことを積極的に反対しなかった時点で、彼もまた加害者だった。絶望と苦痛と怒り、自由にならない体の中で唯一、感情を深く宿した目がスエインを責める。
(今更……)
「失礼します!」
「っ!」
 後悔という思考の淵に落ちかけたスエインは、思わず体を仰け反らせた。
「……その、お話の最中に、申し訳ありません」
「構わん。何用だ」
 伝令の兵が床に膝をつく。背中が大きく上下しているのは、それだけ急いでやってきたという証拠だろう。
 グエンとスエインに見下ろされ、わずかに緊張を滲ませたまま、兵は高く声を上げた。
「ただいま、王都より緊急の要請が入りました。王都の南、リーテ・ドール寄りの街道に、『黒』が出現したとのことです!」
「なに……?」
「『黒』の進路はまっすぐに王都。すぐに『失黒』とともに迎え打つようにとの命にございます!」
「命、か。どこからのものか、知れたものだな」
 はっきりと嘲笑を声に乗せ、グエンは顎を撫でる。
「陛下ではあるまい。王宮の年寄りどもか。しかしまあ、無視するわけにもいくまい」
「言っておくが、『失黒』はすぐには出せんよ」
「何故だ?」
「こうも感情が出るようでは、まだ調整が必要だ。あと一日はかかる」
「遅い。半日でやれ」
「……では、明日の昼までに」
 仕方ない、とグエンは呟く。抗議しようと口を開いたスエインを遮るように、彼は手にしていた外套を大きく払った。
「準備が整い次第迎撃する旨、返信しておけ」
「――はっ」
 床すれすれの位置まで頭を下げた後、伝令兵は急ぎ来た通路を引き返す。彼の足音だけを耳に、スエインは平静を取り繕った表情で、上官へと視線を向けた。
「私も、『黒』の討伐に向かいます」
「ならん」
「! 何故ですか」
「ここをがら空きにするわけにも行くまい。来たばかりの儂より、お前の方がここには詳しかろう」
 白々しく取って付けたような、しかし拒絶材料も見いだせない単純な理由に、スエインは心の中で舌打ちを繰り返した。命令に背きかねない部下は不要ということだろう。
「ルエロ、お前は来い」
「君の命令に従わなければならない理由はないが?」
「久々に腕を振るう気にはならんか?」
 意味ありげな目線に、ルエロは皮肉っぽく口元を歪めた。
「久々にあれを使う気か」


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