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「足止め程度の効果はあったずだが?」
「その程度だ」
 ふたりを見比べ、スエインは眉根を寄せる。そうして数秒遅れでその意味示すことに気づき、――知らず、唇を戦慄かせた。血の気の引く音を聞きながら、瞬時に冷たくなった指先で強く拳を作る。
「あなたはまだ、『黒』をコントロールできるとでも思っているんですか……!」
「まさか」
 むしろ白けたような顔で、グエンはスエインを見つめやる。
「言っただろう。足止めだとな」
「それでも……、あなたは、いえ、私たちは、後悔したはずです。忘れたなどとは、言わせません!」
「忘れるわけ、なかろう。もう、術になど、期待はしておらぬわ」
「耳に痛い話だ」
「でしたら、何故!」
「失敗から学んだことは、過信してはならぬということだ。けして、効果がないわけでも、使ってはならんということではない」
「しかし、たかが足止めのために、」
「足止めでなければよいのか?」
 揶揄に、スエインは体を強ばらせた。
「確実に『黒』をしとめられる『失黒』を使うなといい、同じ口で確実にできるのなら構わないと言うのか? 理想だけは高い、勝手な口だ」
 反論を失い、スエインは口を噤む。
 重く落ちた沈黙。しばらく後に、ため息を吐いたのはグエンの方だった。
「時間の無駄だ。――ルエロ、とっとと『失黒』を使えるようにしろ」
「無論」
「あれの方は――」
「人がいるな。ひとりふたり、見繕ってくれ」
「いつまでだ?」
「明日の朝までに」
 判った、とグエンのたやすく請け負う声がする。そうして、立ちすくんだスエインを置いて、足音が遠ざかっていく。それをどこか遠くで聞きながらスエインは、どうとも動けない自分の身を強く呪った。
 どうすればいいのか、判らない。混乱した頭の奥で、ふと冷静な自分が何気なしに――思う。
 グエンは少なくとも、私心を優先しているわけではない。自由に振る舞っているように見えるルエロもまた、『黒』を恐れ、憎み、セルリアを守るという気持ちを土台に持っている。だが、どこか、逸脱してしまった。
 彼らは、可能性と希望に挑む賢者であり、人でありながら生命を弄ぶ、恐れと際限を知らぬ神への反逆者だ。
 もしかしたら『黒』はこの、誇り高き愚者を裁くために、絶対的な破壊者として存在するのかもしれない。
 柄にもない考えにスエインは、ただ低い嘲笑を口元に刻み込んだ。

 *

 淡い光を感じ、飛鳥はゆっくりと瞼を持ち上げた。乾燥した暗闇の中、頼りない蝋燭の炎がゆらゆらと、不規則に揺れながら近づいてくる。
 ――誰だろう。
 否、ここはどこだろう。
 記憶にあるのは、特徴のない真っ白の天井だけ。病室のような表現だが、この場合は例えではなくただの事実だった。のっぺりとした漆喰の、飾るものひとつない真っ平らな一面の白。
 そうしていつも、体は動かない。ただ、思考だけが宙を漂っている。
「……だ、れ?」
 微かな、囁くような声には実は、今の飛鳥にとっての全身の力が込められている。同じように力を振り絞って、大声でジルギールを引き止めたことが、遠い昔のようだ。思い、飛鳥はせり上がる感情に目を細めた。
「『失黒』」
 女の声だ。平坦な声だが、飛鳥に呼びかけたのだろう。
「聞こえているか?」
 手燭に合わせて炎が小さく身を捩る。綺麗だと思いつつ、飛鳥は苦労して目線をそこに合わせた。
 その反応を応と取ったのだろう。わずかな衣擦れの音と共に、女は飛鳥の横にしゃがみ込んだようだった。
「心配しなくていい。私は何もしない。ただ、様子を見てくるように頼まれただけだよ」
「あなたは、」
 聞いたことのある声だと思い、飛鳥はすぐにその答えを拾い上げた。如何にも印象に残る場面、飛鳥が蹴り殺されようとしていたとき、止めてくれたセルリアの兵だ。
「ありがとう……」
 女には女の理由があるにしろ、暴力を止めてくれたことには変わりない。少なくとも、話の分からない人物ではないだろう。
 だが、飛鳥の謝辞に、女は首を傾げたようだった。近くの壁に映る巨大な影が、不思議そうに傾いで止まる。
「罵られこそすれ、礼を言われる覚えはないんだけどね」
 飛鳥は口元に苦笑を浮かべた。
「気分は悪くないみたいだね。ひどい熱を持っていたと、隊長が気にしていたから」
「……」
「意識はあるのか? 覚えているのか? ――だったら、辛いな」
 スエインと呼ばれた青い髪の男に一部始終を聞いたのだろう。問いかけた女の表情はよく判らない。ただ、語尾が感情を伴ってわずかに揺れた。
「水は、飲める?」
 飲める。だが必要ないと、飛鳥は緩く首を横に振った。体を維持するための食事は、飛鳥の意志とは関係なしに無理矢理摂らされている。痛くも苦しくもない。ただ、体が動かない。タチの悪い金縛り、そう表現するのが一番近いだろう。
「……本当は、ここから出してやれればいいんだけど。すまないが、私には、逃がしてあげることはできない。許してほしい」
 では何をしに来た、とは飛鳥は思わなかった。感情の上では同調していても、現実問題何をしてあげられることもできない、そんなどうしようもない状況は、十分に身に覚えがある。今彼女に八つ当たることは可能だったが、それは、――ひどく虚しいことだ。
 飛鳥は、不自由な体勢のまま首を伸ばし、無理矢理女と目線を合わせた。
「な、まえ、は……?」
 女が目を見開く。そうして、何故そんなことを問うのかと、訝しげな視線を飛鳥に向けた。
「なんと、なく」
 特に意味はない。ただ、敵対する立場でありながら純粋に心配をしてくれた人のことが知りたかった。
 それを説明するだけの力がないことに気づいたのだろう。女は片隅で躊躇いつつも、答えを口にした。
「テラ」


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