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 今度は、飛鳥が目を丸くした。
「テラ・マルロウ。――あなたは?」
 社交辞令か、テラが問い返す。ひと呼吸置き、溜めた力で飛鳥は自分の正確な名前を口にした。
「飛鳥」
「アスカ?」
「飛鳥」
「アスカでしょ」
「ちが、う。飛鳥」
 この世界では、飛鳥の名前はどこかおかしな発音に変換されている。なんとなしにムキになって、飛鳥はテラを相手に指導を繰り返した。無論、途切れ途切れの言葉にならないようにするため、スムーズには進まない。だが呆れつつも、テラはそれに逆らわなかった。
「飛鳥。――これであってる?」
 十数度目にして、テラはようやく、耳に馴染む音で飛鳥を呼んだ。頷き、疲労と喜びを混ぜた笑みで飛鳥は賞賛を伝える。
「あり、がとう」
「……変わった名前だ」
「あなた、も」
「私? そうかな」
「おな、じ」
「え?」
「わたし、の、いた、……星、のな、まえ」
 懐かしい、と飛鳥は目元を滲ませる。テラは、はっと息をのんだようだった。声にならずに漂った望郷の思いに沈黙が落ちる。
 躊躇い、テラが口を開く。
「帰りたい、だろうね」
 頷く。
「……では、ひとつ、聞いても良いか?」
「な、に?」
「あなたは何故、そんなにも『黒』をかばう? あれを始末すれば、多少の無理も通るはずだ」
 そんなことは、飛鳥にも判っている。体を改造される前、牢を訪ねてきた男も同じ事を言っていた。あの時は揶揄したが、彼がけして口から先でものを言っていたわけではないことくらい、充分に判っている。
「あれがいなければ、そも、お前がここに来ることはなかったという元凶だろうに」
 皆がそう言う。元を正せば『黒』が悪いのだと。憎めと、憎まれて当然の存在だと誰もが口にする。
 飛鳥はただ、奥歯を噛みしめた。そこに無理がないわけはない。だが、そうでもしないと、涙が溢れそうだった。
 ――判るまい。この気持ちは、彼らには永遠に。
 飛鳥の脳裏に、再び、ジルギールを引き止めた場面が繰り返される。
 あの荒野で、全てから置き去りにされた孤独の中。ただひとり引き返してくれた存在が飛鳥に何を与えてくれたのか、けして理解されることなどないだろう……。

 *

 遙か下を見下ろせば、次第に明かりの消えていく王都の夜景が広がっていた。いつの間に崩れたのか、身長の倍ほどの高さにそびえていた、厚い壁が角の手前で途切れている。
 ここから見える景色はこんなに美しいものだったのかと思い、ラゼルはため息を吐いた。国内最大のオアシスである王都は、辺境の荒れ果てた光景からは想像も出来ないほど水と土に恵まれ、何人たりとも足を踏み入れないこの庭にも、草木が瑞々しく生い茂っている。
 肥沃な大地、潤沢な水、金と栄誉を落とす術という英知。セルリアという国全体を世界の基準で見るならば、寂れた弱小国であるに過ぎないはずである。国土の半分以上は耕作に適さぬ地であり、完全内陸国でもあり、稀少な鉱物資源があるわけでもない。だがこの王都とごく僅かの近隣の街だけは「術」の最新技術により驚くほどに繁栄している。それこそ、選ばれた土地であるかのように、地方都市との格差はひどい。
 ――だからこそ、人々は勘違いしたのだろう。『黒』ですら御せると思いこむほどに。
 箱庭。平穏で穏やかな、偽りの楽園。それこそ選ばれた者だけがここを訪れ、この狭い世界の主を庇護した。――否、隔離した。或いは、実験だったと言うべきかも知れない。そしてラゼルもまた、この世界の住人だった。
(……アロラス様)
 彼は、けしてここを出てはならなかった。そうであれば、と思わぬでもない。だがそれはただの過去の悔恨であることも事実である。事は起き、傷痕だけが残った。
 『失黒』としてそれまでの奴隷同然の身から、――奴隷以上に酷い環境から、一気に栄誉に浸されたはずのラゼルですら例外ではない。むしろ、ラゼルにはラゼルの、他の誰ともわかり合えない大きな爪痕を心に残した。落ちこぼれ集団とも言える第四師団の団長として、辺境警備という実りの少ない損な役回りを進んで引き受けているのは、「彼」の名残の強い王都、王宮を離れていたいからかもしれない。
 何十年経った今でも、ラゼルの耳には、女の悲鳴が木霊している。
 逃げ惑う侍女たち、こじ開けられた扉、逃げられずに部屋の隅で振るえている幼い王孫、破壊された家具の間から見えた白い、白すぎる大腿。振り乱された髪は生き物のように床を這い、美しい面はこれ以上はないほどに恐怖に引き攣っていた。
 そして、死した女に跨り首に手を掛ける、線の細い少年の影。周囲に散乱する千切れた手足。鈍く光る血溜まりが毛足の短い絨毯に染みこんでいく。
 その中でも殊更身を震わせるものは、宙を睨む体無き顔。それは彼女の夫のもので、幼い子供の父親のもので、――一部始終を目撃していた幼い心に、絶対的な恐怖を植え付けてしまった。ラゼル同様、彼女もまた、あの日の幻影から今なお逃れられずにいる。
 彼は、ここから出てはならなかった。
 ラゼルはそう、繰り返す。だがそれは、人間の成長過程を考えれば、無理に近いことだったのだろう。外への好奇心、性への興味、反抗精神、それらの正しい心の動きは、子供のままに時間を止めること能わず、彼に世界を直視させてしまった。そして、世界は彼に牙を剥いた。
 多くの犠牲の上に築き上げられた箱庭の瓦解、そのたった一日に起きた大惨事の責任が誰の上にあったのか、ラゼルには未だに整理つけることが出来ないでいる。多くの者は間違いなく、『黒』の暴走にこそ原因があると結論付けているだろう。だが、彼に弱い心しか植え付けなかったのは、誰だろうか。
 ラゼルはふと、王都へ急進しているという現在の『黒』を思う。いくら法の保護や『白』の女王の擁護があると言っても、『黒』に向けられる感情は生易しいものではないだろう。そんな辛いはずの旅を何故彼は続けているのかが、ラゼルには不思議だった。「金の髪のもの」を執拗に追い求める裏には何の思惑があるのか。『黒』の道行きは嫌というほど耳にすると言うのに、肝腎のことは全く伝わっていない。
 ここまで長い間生きた『黒』だ。普通ならとうに精神崩壊を起こし、暴走の果てに力尽きているだろうことを思えば、驚異的な精神力だと言える。そんな『黒』が考えもなしに、多くの者を巻き込んでまで旅を続けるだろうか。
 否、と、頭の中の冷静な部分が告げる。理由はある。だが、誰もそれを知ろうとはしない。せずにただ、『黒』を忌避し、退ける。
 思い、ラゼルは、頬を掠めた冷たい風に身を震わせた。
 もしかしたらセルリアはまた、間違ったことを繰り返しているのかも知れない。真実から逃げ、遠ざけ、一時の平穏にしがみつく。そこに、どんな犠牲があろうとも目を瞑り、僅かな間の保身に走る、憐れな運命の走狗――。
 ラゼルは知らず、両腕を強く抱え込んだ。
 『黒』について考え思いを馳せるなど、それ自体が狂っていると見なされても仕方がないだろう。だがラゼルは、思わずにはいられなかった。かつての楽園が、思い出と現実の境目で小さな警鐘を鳴らしている。うち捨てられ荒れ果てたこの庭園に、未来の国の姿を重ねている自分に愕然として、ラゼルは僅かによろめいた。
(――駄目だ)
 苦しくても、辛くても、今度こそ現実から目を背けてはならない。いや、むしろ、正面から対峙して、そこに道を見つけ出さねば、未来はない。
 過去からの警告を胸に、ラゼルは毅然と顔を上げた。覚悟を決めるというなら、「彼」に手を下した自分こそが、全てを投げ打たねばならないだろう。
 そうして主なき墓標に深く頭垂れ、彼はかつて住み暮らした離宮を後にした。


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