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 オルトとの短い遣り取りの間にも、にらみ合いは続いている。多くの兵にとっての『黒』に近づく限界なのか、距離にして百メートル足らず、その微妙な空間で濃縮された感情が爆発の時を待つ。
 永遠に続くわけもない均衡。その、一触即発に近い沈黙を破ったのは、予想外の声だった。
「帰って」
 ジルギールの背が揺れる。
「私は還りたいの。だから、帰って」
「……アスカ」
「帰ってくれたら、私を還してくれるって約束した。私はあなたのせいで酷い目に遭ったんだもの。償いくらい、してくれるよね?」
 事実の指摘。だがむろん、それが飛鳥の本心だとは思えない。ほんの数日の付き合いだったが、それくらいはクローナにも判る。飛鳥がそれを希うなら、旅のもっと早い段階でも良かったはずだ。妙なところで諦めが早いのか、或いは人を憎み恨むことに慣れていないのか、彼女はけして、『黒』を責めたりはしていなかった。
 そして『黒』は、贖罪以上の感情を持って、低く嗤う。
「下手な芝居にもほどがある」
 数人の兵が、怯えるように数歩後退した。はじめて聞く『黒』の肉声に不穏すぎるものが含まれていたとなれば、当然の反応と言える。否、数えるほどで済んだのは、それだけよく訓練された集団という証拠だろう。
 ジルギールが、一歩前へ進み出た。
「アスカの言葉に耳など貸さなかったお前たちの約束など、アスカが信じたりするものか」
「これは異な事を。今まさに、彼女の口から出た言葉だというのに、――まさか、我々が無理矢理言わせているとでも?」
 『黒』の不穏な空気を意に介した様子もなく、太い声がふたりの間に亀裂を作る。
「どうかな、アスカ」
「私は脅されてなどいないわ。この国の人たちを脅しているのはむしろあなたの方じゃないの?」
「……随分、都合の良い科白を言わせる」
 目を眇め、ジルギールは飛鳥の周囲にいる者の姿を薙いだ。
「暗示か術かは知らないが、お粗末なことだ」
「彼女の言葉に、反論ができないかね?」
「国と国の間の頼み事とは、そういうものだろう? 頼み事を断れなかった弱さを、脅されたと変換するのは楽なことだ。屈することで楽をしたツケだと思ってもらうしかない」
 大国の言い分に、セルリアの兵たちが顔色を変える。それらを一歩離れたところから冷静に眺め、彼らの憤りも当然だとクローナは皮肉な笑みを浮かべた。その程度のこと、『白』の王の側で育ったジルギールに判らぬ訳がない。彼はむろん、承知の上で彼らを誘っているのだ。
 早く来い、と。
 心にもない科白を飛鳥に吐かせたことで、セルリア軍は確実に、ジルギールの怒りを限界点へ押し上げてしまった。冷え切った感情の奥で、目的のために手段を選ばない冷静さが、青白い炎を纏って舌なめずりしている。
 そう感じ取り、クローナは喉を激しく上下させた。だが、口を挟むことはできない。冷え、強ばった手を握りしめ、彼女は成り行きを見守りながら、何ごとにも対処できるようにと身構える。
「だが、あくまで脅しというなら、アスカの言葉が本物だというなら、それに免じて引いてやってもいい」
「ほう」
「ただし、条件がある」
 言葉を止め、ジルギールは敵の将を、次いで飛鳥に強い視線を向けた。
「アスカ、本心から言っているなら、俺の名前を言え」
「……」
「アスカがアスカの意志で喋っているなら、なんら造作もないことのはずだ。――呼んでみろ。そうすれば、信じてやる」
 返ってきたのは、――むろん、沈黙である。
 アスカにどうやって、不出来な台本のような科白を言わせたのかはクローナにも判らない。だが少なくとも、それを教え込んだ者たちは『黒』の名前など見も聞きもしようとはしなかったのだろう。人形のような飛鳥を繰る手が知らぬ、或いは知っていても怖れが勝って思い浮かべも出来ぬ以上、今の飛鳥が口に出来るはずもない。
 いっかな口を開かない彼女を見つめ、それみたことかと、ジルギールが引き攣るように口端を曲げた。
「――猶予をやる。道を開けろ。アスカを返せ。それで、命乞いとみなしてやる」
 選択肢ですらない、宣告。最凶の生き物が作る凶悪で獰猛な笑みに誰もが息を呑む。直接彼の顔を見たわけでもないクローナですら、膝の震えが抑えられなかった。
 いくつもの蒼褪めた顔、遠目にも判るほどに揺れる体。一瞬の、完全なる沈黙。
 動かない敵を見つめ、『黒』は僅かに目を眇めたようだった。
「では、死ね」

 *

 薄くかかった雲の下、それよりも遙かに濃い色の砂塵が、地表を間断なく這いずり回る。中天を越した陽光は、本来なら短く濃い影を落としているはずだが、立ちこめる煙、そして強烈な閃光がその眩しさをひどく遠いものにしていた。連続する爆音、響き、衝撃に震える大地に、大気を甲高い音で裂いた矢が鋭く突き刺さる。
 『黒』の攻撃は、細心の注意を孕みながらも容赦なく、立ちはだかるセルリア兵を容易く蹴散らしていった。だが、それでも彼は本来の力に呆れるほどの手加減を加えている。その原因、飛鳥という人質がいなければ、いかなる人数差もものともせず、勝敗は一瞬にして決していただろう。
 遠目で彼を監視しながら、クローナはアスカを救出する機会を狙っていた。だが、セルリア軍も莫迦ではない。『黒』の進行を止めつつ、巧みに位置を変え、なかなかアスカに近づけないように立ち回っている。時にオルト、ユアンが切り込む場面もあったが、さすがに第一師団団長の武はそれを成功には終わらせてくれなかった。ユアンはもともと、積極的な攻撃には向かない戦い方を得意とし、オルトの腕ではまだ歴戦の将には及ばないといったところだろう。
 常にアスカとアスカの乗る獣に付き従う術師の存在もまた、不気味だった。兵への援護のために繰り出される術は洗練され、かつ凄まじい威力を伴っており、なまじ腕が立つだけの兵よりも余程脅威ではある。しかしそれ以上に、彼の立ち回り方そのものがクローナの目には奇妙に映るのだ。
 どこがおかしいとは言えない。だが、作為的な物を感じる。
 その正体を見極めようと集中したいクローナではあったが、生憎と圧倒的な多勢に無勢がそれを許してくれそうにはなかった。繰り出す術の合間を縫うように、彼女の鼻先を、矢が掠めていく。
「邪魔、ですわよ!」
 防護壁を展開しつつ、クローナは爪先で乾いた土に弧を描く。途端、数メートル離れた先で円錐状に地面が隆起し、彼女を狙っていたセルリア兵が数人、足下を掬われて転び倒れた。
「女っ……!」
「甘く見ない方がよろしくてよ」


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