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 およそ一分足らず。十数合、激しく打ち合った後に先に隙を作ったのはテラの方だった。それまでクローナに真っ直ぐ向けられていた視線がふと横に逸れ、次の一瞬、彼女は大きく目を見開いた。それを見逃すクローナではない。
 カラン、と乾いた音を立てて、使い古された剣が地面を叩く。
「――待て!」
「ご冗談を!」
 クローナの手が宙に円を描き、テラを見えざる手で拘束する。
「暴れない方がよろしくてよ」
「それどころじゃない!」
 叫び、テラは不自由な手を伸ばして、クローナの後ろを指し示す。
「『黒』の周りが!」
 その切羽詰まった声に、クローナは弾かれたように振りかえる。そうして彼女もまた、強く顔を強ばらせた。
 離れた場所で戦っていたはずのジルギールの周辺を、どす黒い靄が覆っている。まだ薄く、彼の姿を視認出来る程度だが、暴走に向けての危険な兆候であることには変わりない。
 やはり、最期の時が近い。あまりにも強大な力に、ジルギールの制御が効かなくなっているのだ。疲労と、おそらくは焦燥感がそれに拍車をかけている。
「お兄様たちは……」
 散らばって戦っていたラギたちも、なんとかジルギールの方へ行こうと足を向けている。しかし、黒い靄の意味を知らぬのか、セルリア兵はそんな彼らを阻むように攻撃を繰り返す。ジルギールの動きは完全に止まっていたが、おかげで三人と彼の間には捕縛術を行えないほどの距離が開けてしまっていた。
 クローナが拘束しているセルリア兵が、次々に悲鳴を上げる。
「莫迦な……、皆、あれが見えないのか!?」
「お、おい、止めろよ、……おい!」
「あなた方は、お解りになる?」
「当たり前だ!」
「使者どの。彼らはアレがなにを示すのかは判っていません。けれど、アレが不気味で不吉なものだということくらいは感じ取れます」
「クローナですわ。クローナ・バルワーズ。テラ、それでは何故、あの者たちは、後ろに『黒』を感じながら、三人を阻むのかご存じかしら」
「……それは」
 躊躇いつつ、テラが回答を口にしようとした矢先、
「……アスカ!?」
 ジルギールのひび割れた声が、クローナの元にまで響き届いた。ラギやオルトへ視線を向けていたクローナは、その声に引きずられたように顔を向ける。
 それはまさに――飛鳥がジルギールの真上に、剣を振り下ろした瞬間だった。知らず、クローナは大きく息を呑む。
「いつの間に」
 テラの呟きは、それを見ていた多くの者の気持ちを代弁したものだっただろう。飛鳥は戦闘が始まって以降、ずっと獣の上に座っていた。術師の男に促されて移動する以外には動こうともせず、血なまぐさい戦場を睥睨していたのだ。
 誰もがそう思っていたに違いなく、故に、目立つ獣から降りさえすれば、砂煙に紛れて密かに移動することくらいは出来たかも知れない。だが、『黒』は皆の注目を浴びている。そんな彼の間合いに入ることを、誰の目にも気付かれずに行うことは、おおよそ不可能なことだった。
 相当の距離を一気に跳躍すれば話は別だが、ただの人間に出来る芸当ではない。
 だが、
「……嘘だろ」
 悲鳴にも似た呟きに、クローナもまた唇を戦慄かせた。
 目の前、というのは少し離れすぎた場所で、しかしそんな距離を忘れさせるほどの、信じられないことが起きている。陽光を弾く鮮やかな金髪がなければ、別人だと思ったことだろう。
 飛鳥が身の丈ほどもある剣を振り上げる。剣筋に迷いはなく、また、申し分ない速さを持って標的に落とされる。ジルギールは呻きながら剣の鞘で受け止め、勢いを殺すために大きく後退した。だが飛鳥の動きは素早く、体勢を崩した彼を狙い、既に至近距離に迫っている。
「っ!」
 危うく避けたジルギールの喉から、一筋の血が流れ落ちた。咄嗟に喉元を抑えたジルギールの足を掬い、飛鳥は長剣を鞘に、改めて短剣を構え直す。次いで繰り出された刃は、転がって避けようとしたジルギールの左肩口へと深く食い込んだ。
「痛っ……!」
 遠目にも判る出血に、周囲から歓声が沸き起こる。しかし飛鳥の攻撃は止むことを知らず、ジルギールが長年、己を隠すために纏い続けていた外套をさらに切り裂いていく。
 更に周辺を吹き荒れる砂嵐。飛鳥を援護するように出現したそれは、自然のものではないだろう。術者か、と思い、クローナは反射的に両手で術を編み出した。この距離では、術を消滅させることは不可能と判断し、相殺の効果を狙った術を飛ばす。
「!?」
 だがそれは、巻き起こった砂嵐へ到達する前に、別の術によってかき消されることとなった。新たな術が動いた気配はない。
「……テラ」
「なんです」
「あの周辺に、元から術が仕掛けられている。そうですわね?」
 おそらく、テラが言いかけたことだろう。ジルギールのいる辺りには、予め某かの術が仕掛けられていた。おそらくは、兵に『黒』への感覚を鈍磨させ、思考をまた鈍らせるといった代物だろう。大規模な術で、とてもひとりでは賄いきれないほどの膨大な力を消費するが、理論として不可能なものではない。一対一で使用するのなら、例えば沈静目的でもよく使用されている。規模と対象を不特定多数にしているだけだ。
 曖昧に頷いたテラを睨み、クローナは更に言葉を続けた。
「アスカに、何をしたかしら」
「……なんのことだ」
「アスカは戦うことなんて出来ませんでしたわ。あんなにも動けるなら、あなたの連れの方に易々と捕まるなどといった真似、許すわけありませんもの」
「……」
 飛鳥に、台本通りの科白を言わせる仕組みは判る。暗示をはじめとして、意識を無くした、或いは強制的に眠らせた相手を操る術は難しいが不可能ではない。だが、思うように動かすとなると話は別だ。更に言うならば、操るとしても、元の飛鳥の能力を大きく超えすぎている。
「アスカに何をしたのです!」
「……操られているだけです」
「嘘おっしゃい!」
「私は知らない!」
 テラの叫びに、鈍く重い地響きが重なった。思わず地面に手を付いたクローナは、再び視線を戦いの場へと向ける。
 地を揺るがしたのはジルギールの一撃だったのだろう。黒い靄をまとわりつかせながら、彼は反撃に移っていた。――否、飛鳥の攻勢を封じ込めながら、彼女を捉えようと機会を狙っているのだろう。
 ジルギールの剣が飛鳥のそれを弾く。充分手加減したことが判る緩慢な動きではあったが、飛鳥は大きく姿勢を崩した。もとより、力の差は歴然としている。ましてジルギールの剣筋が我流の不規則なものとなれば、どれほど精巧な術をかけようとも繰りきれなどしないだろう。


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