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「アスカ!」
 呼びかけるジルギールとは対照的に無表情に、アスカは攻勢を緩めず再び襲いかかる。剣筋は鋭く速く、完全な攻撃には至れないジルギールをしつこく苛んだ。本気でかかれば一動作で済む相手であるにも関わらず、彼はどうすることもできずにただ返し、躱し、戸惑いを持って防ぐ。いっかな止まることのない剣先は、握る手を傷つけることを良しとしない彼自身の心によって、鉄壁の壁となっていた。
「アスカ、目を覚ませ!」
 懇願にも似た呼びかけにも、飛鳥の応じる様子はない。遠くからそれを視認しつつ、クローナはあまりといえばあまりの状況に強く眉根を寄せた。片方は心情的に、片方は時間として、けして長く付き合ったふたりではないというのに、戦う姿は何故か見ているのが辛い。
 ジルギールを背後から襲う矢に気付いたクローナは、無駄かと思いつつ、再び術をその方へと射出した。矢の勢いを風で流し、そのまま射手へと別の術を放つ。先ほどと同じく、力の大半は不可思議な別の術によって阻まれたものの、予想外の方向からの援護は上手くセルリア兵の不意を突いたようだった。突如隆起した大地に足下を掬われたセルリア兵はあっけなく姿勢を崩し、同じくその場に居合わせた仲間と押し合ってまともに地面へと倒れ込む。丁度近くにいたラギが、打ち合わせでもしていたかのような連携で彼らを容易く昏倒させ、クローナへと合図を送った。
 しかし敵は多く、味方は精鋭と言えどあまりに寡兵。
 クローナが焦燥を抱くのと同様、ジルギールも事が長引くを良しとはしなかったようである。
「……ごめん!」
 ジルギールがわざと作った隙を見て、飛鳥が大きく剣を振りかぶった。その間合いを見計らってジルギールが手首を翻す。
 甲高い金属音、それに合わせたように長く、しかし細めの剣が空に向かって緩やかな弧を描く。伸ばされた手を避けるように後退した飛鳥の口からは何の悲鳴も漏れなかったが、間合いを取り終えた彼女の肩は体の無理を示すように大きく揺れていた。
「アスカ」
 油断なく剣を構えたまま、ジルギールが再び呼びかける。
「俺だ。判らないか?」
「……」
「アスカ!」
 ざぁ、と風が唸る。何ごとか、飛鳥が呟いた。ジルギールにも、勿論クローナにも届かない。
 何、とジルギールは問い返したようだった。

「……あなたの、負けよ」

 飛鳥の唇が、奇妙に吊り上がる。泣きそうな表情のまま、無理矢理嗤うような――
「……アスカ?」
 戸惑い、ジルギールは飛鳥に手を伸ばす。
 だが、その瞬間。
「――!?」
「おおおおおおっ!!」
 何十人、否、何百人の発した掛け声が、一斉に響きわたる。地鳴り、地響き、そして大地の割れるような轟音と共に巻きあがる砂煙。ぎよっとして目を凝らしたクローナの目に、細かい格子状の影が一枚の壁のように流れていくのが映った。
 危険を察し、ジルギールがその場を離れようと身を捩る。だが、それもまた予測の範囲だったのだろう。全容の見えぬ第一の罠に続き、ふたつめの仕掛けが彼に牙をむいた。
「……あれは!?」
 眩しさに、クローナは思わず顔を手で覆って俯いた。他の者も図ったかのように同じ動作で自らを庇う。むろん、ジルギールもまた例外ではない。『黒』が如何に全体的な能力に優れていようと、基本的な構造は他の人間と変わりないのだ。
 足止めか、とクローナはおそるおそる顔を上げる。確かにそれは、単純で且つ効果的なものと言えるが、それだけではない予感がした。彼女自身に何も起こらないのは、それの標的が『黒』であるためだろう。
「何が……」
 呟き、再び目を凝らす。そうしてクローナは、信じられないものをそこに見た。
 収まりつつある砂煙の薄い紗の向こうに、地を這う巨大な銀の固まりが見える。中央を薄く盛り上げ、四肢をべったりと地面に伸ばす、巨大な、
「……網?」
「そうです。対『黒』用に作られた、細い細い鋼を寄り合わせて作られた網です」
「今まで、どこに」
「この地面の下に隠してありました。四方の端を引けば、術が作用し、ポイントとなる地点にある者を取り込もうと膨れ上がります」
「アスカに、誘導させたというわけですわね」
「そうです」
 テラが情報を自ら開示したのは、仕掛け自体は一度作動してみれば判ってしまうほど単純なものだからだろう。一度しか使えない手ではあるが、それ故に効果は大きいと言える。傷つけることも毒することもできぬ相手となれば、確かに、持つ力を上回るもので強引に拘束してしまうより他に、足を止める手段はない。
 現に、どれほどの重量があるとも知れぬ網の下、隆起を作っているものは、完全に囚われている。
「アスカは……」
 ジルギールの側にいたはずの彼女も、無事では済まなかったはずだ。クローナは手のひらに汗を滲ませる。
 だが、彼女の声を受けて、テラが彼女の不安を打ち消した。
「あすこに」
 拘束を受けたままの体を捩り、遠くを指し示す。目を細めてその方を見つめたクローナはそこに、砂煙を上げながら去っていく獣の姿を認めた。その背に乗った人物が、眩しい色を背に流している。その前に座り、長衣をはためかせているのは、術師のようであった。
「……どこに向かっているの」
 さすがにテラは答えない。
「言いなさい!」
 掠れた声を上げ、クローナはテラの喉元へと剣の刃を向けた。
「判りませんの? あなたがたがアスカを手にしている限り、『黒』はけして引き下がりませんわ。たとえ今この場にエルリーゼ王女がやってきたとしても、『黒』は……」
 言葉の途中、クローナはしかし、口を閉ざさざるを得なくなった。
 異臭。そして、不協和音の悲鳴が四方から上がる。
「う、嘘だろ……」
 呟くその間にも、奇跡とは逆の意味合いの、あり得ない現象が進行していく。恐怖、そして畏怖。施されていた術の効力を超えるほどの驚愕が、セルリア兵の感情を塗りつぶした。
 鋼の網が、その一部が朱く黄色く、――溶け出している。否、正確に言えば、溶けていく一方で、そこから網が裂かれていっている。千数百度を越す熱を発し、それに耐え、さらには一本でさえ千切ることも困難な鋼の糸をまとめて裂いていく指先に、誰もが戦慄を覚えただろう。まるで、世界を滅ぼす魔物が、溶岩の下から産声を上げるようだと、クローナは理由もなくそう思った。
 やがて、凄まじい音が響き渡る。鋼の網は歪な形に左右に割れ、そこから、黒い腕が突き出された。見る間に穴は広がり、羽化するように、屈めた背を伸ばして人の形をした化け物が姿を見せる。


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