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 瞬間、言葉に出来ないほどの恐怖心、或いは不快感がクローナの体の中を走り抜けた。恥も外聞もなく逃げ出したい衝動に駆られ、それを抑え込むために掌に爪を食い込ませる。
 多くの者が言葉を失う中、化け物は引き裂かれた網の上に降り立った。そうして、体を一振り。身震いのような仕草と共に、表面を覆っていた漆黒の殻がひび割れ、崩れ落ちていく。
 下から現れたのは、黒い靄を纏った、全裸の青年だった。見事な均整をもって鍛え上げられた体、靄の隙間に見えるその皮膚はさすがに赤い。だが、身につけていたものと鋼を溶かし、大地を焦がしたほどの熱を纏ったにも関わらず、彼自身は明らかに無傷だった。一度大きく腕を振り回し、まとわりついていた何かの残骸を振り払い、ひと跳躍。一気に百数十メートルの距離と駆けると、彼は倒れてたセルリア兵の服を剥ぎ、あっと言う間にそれを身につけた。
 そうして左右を見回し、感情の消えた目をセルリアの司令塔に向ける。
「……化け物が」
 視線を受け、僅かに怯んだ声で吐き捨てる。
「救いがたい化け物だ。この世に、災厄しかもたらさない、……」
 独白、そして第一師団長は後ろに控えた兵に向けて片手を上げた。
「あれを。ここで使いたくはなかったが、致し方ない」
「――はっ!」
 慌てて様子で数人の兵が発煙筒を上げた。それを目で追い、クローナは何が始まるのかと眉根を寄せる。
 ジルギールはそれに目を止めた様子もなく、兵から奪った剣を構え、地を蹴った。勢いよく、常人には不可能な跳躍力をもって、一気に師団長へと肉薄する。
「――いけない、殿下!」
 離れた場所で、セルリア兵と切り結びながら、ユアンが叫ぶ。
 ほぼ同時に、金属同士が高い悲鳴を上げる。本能的な恐怖を上回る冷静な判断をもって、師団長が己の大剣でジルギールの剣を払いのけたのだ。鋼を裂いた力を見ておきながら、無様に逃げようとしなかったのはさすがと言うべきだろう。或いは、『黒』が人に武をもって向かう時、けして人外の力を持って潰そうとはしないことを察しているかだが、いずれにしても、尋常な胆力ではない。
 二合、三合、唸りをあげ急所を狙うふたつの刃が、重く鋭い音を響かせる。遠くから『黒』を狙う矢もつがえられていたが、一瞬の迷いも挟めない打ち合いに、常人の割り込む隙などはどこにもなかった。
「アスカに何をした! どこへやった!」
 咆吼に、師団長を援護しようとやってきた兵が体を硬直させる。
「貴様等は、どれだけアスカをもてあそべば気が済むんだ!」
「お前が死ぬまでだ」
 唸り、空を裂き、火花を散らすふたつの剣。
「この場に『失黒』を残せなかったのは、残念だ」
「なに……?」
「やれ」
 宣言は低く、しかし力強く厳かに告げられた。ジルギールが迷いと共に距離を取る。――だが、遅い。
「!」
 大気が、唸る。無意識のうちに、クローナは両手で耳を押さえた。視覚が伝える映像には、何の変化もない。距離を取ったジルギールが、そのままの姿勢で固まっている、それだけだ。起こった変化で言えば、先ほどの捕獲作戦の方が、遙かに規模として大きかっただろう。
 だが、声がした。否、声と断じて良いのかもクローナには判らない。風の唸りとも、獣の咆吼とも取れる。だが殆ど直感で、それは人の慟哭だと思った。音程と音量を間違えた、激しくも悲痛な、怨嗟の叫び。怨みを抱えて死んだ者が、一斉に現世を呪ったとすれば、ちょうどこのような音になるだろう。
「うっ、……」
 拘束されたままの兵が、堪らずに胃液を吐き出した。見回せば、殆どの者が強く眉間に皺を寄せて迫り上がる嘔吐感に耐えている。テラも、例外ではないようだった。
「何ですの、これは……」
 呟くクローナではあるが、実際の所、何が起こっているかは判っている。ジルギールが動かない。それだけで敵が狙ったことは明白だった。判らないのは、どういう術なのか、ということである。
「殿下!」
 オルトが叫ぶ。急に動きを止めたジルギールに向けて、数人の兵が一気に襲いかかったのだ。鈍い音が続き、よろめいたジルギールがそのまま膝を突く。そこに、師団長の大剣が容赦なく振り下ろされた。
「っ……!」
 息を止め、堪えるジルギール。硬い岩を叩いたときのような音と共に剣は弾かれ、丁度半分に折れたそれを、師団長はあっさりとそれを手放した。
「……ふむ」
 眉根を寄せて、彼は呟く。
「やはり、『失黒』を引き上げたのは失敗だったか。ルエロめ、肝腎なところで調整不足に陥らせるとは……」
「調……」
「『失黒』無くば、ここではどうしようもない。……引き上げるぞ」
「団長!?」
「これもそう保たぬ」
 言い、師団長は外套を翻す。『黒』に背を向け、迷い無く去っていくその姿を見て、周辺にいた部下が慌ててその後を追った。
「――引け、体勢を立て直す!」
 隊長格の兵が、大声で指令を出す。それを受けて低い法螺貝の音が鳴り響き、まだ歩ける者は一斉に撤退を始めた。
「お、おい、待てよ……」
「置いていかないでくれ!」
 某かの怪我を負った者達が、助けの手を上げた。ジルギールや他の三人の攻撃を受けた兵の大半は、致命傷でなくとも行動不能に陥る傷を受けており、クローナもまた、何十人もの兵を拘束している。だが、走り逃げていく者の中に、彼らに手を貸した者は数えるほどしかいなかった。殆どの者は『黒』が踞る地点を大きく避け、我先にと這々の体で駆けていく。そういった自力で逃げる力を残していたのは、おそらくは、始めにこの地に布陣していた兵の半数にも満たなかっただろう。
 ふと、ある可能性に至り、クローナは術を、ジルギールの居る方向に向けて発動させた。緩く巻き起こった風がそのままの勢いで、逃げていく兵の間を通り抜けていく。
「……『黒』への畏怖を緩和させていた術が消えていますわね」
 それに代わり、何か他の術が『黒』の足を止めている。
「けれど、妙ですわね」
 術が止まり、外套を失ったジルギールからは、『黒』の気、力と恐怖の波動が全開で放出されていなければならないはずである。にも関わらず、今の彼からは普段以上の恐ろしさは感じない。おまけにいつの間にか、彼の周りに漂っていた黒い靄までが消え去っている。つまりそれは、今ジルギールにかけられている術が、『黒』の発する力と恐怖の源を抑え込んでいるということに他ならない。
 だがそのような術は、考案されたのと同じ数だけ失敗している。少なくともクローナは知らず、世間一般には広まっていない。譲って、セルリアが『黒』の力を抑える術を開発したのだとしても、何故この局面まで使われなかったのかということが疑問に残る。もっと早い時期に、例えば飛鳥を身代わりになど差し出さずとも、この術を使って『黒』を強制的に抑え込みさえすれば、エルリーゼと対峙させても問題なかったのではないだろうか。
 今ジルギールは立ち上がってはいるものの、体を強ばらせたまま、苦悶の表情を浮かべている。見えない何かに抗っているようにも見えるそれは丁度、ラギたちによる三点式捕縛術により、暴走が沈静化した後の顔に酷似していた。


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