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(幕間4)

 これは、大変なことになった、と男は思った。
「……化け物」
 鉄の網、その残骸に触れて、男は冷や汗を流す。軍人としてそれなりに力も有るはずの彼には、冷え固まった鉄の一部分ですら持ち上げることが出来なかった。無論、それを引きちぎるなど、敢えて試すまでもない。
 改めて知る『黒』の恐ろしさはさておき、どうするべきか、と男は考えた。
 現在、この付近に自分より他に、グライセラの偵察兵はいない。果たしてこの戦闘の結果を本国へ伝えに中継所まで戻るべきか、『黒』たちの後を追うべきか、判断がつきかねるのだ。
 『黒』に同行していた女が『失黒』の資格を持つと判明して以降、『黒』の気配はより凶悪さを増した。その結果、近づくことが出来ずにろくな情報も集められず、本国へ戻された者が増えたため、残った者の負担が増えてしまっている。
 他に『黒』たちの足取りを追うものがいないのであれば、詳細を知るためにも今から追いかけるべきなのだろう。
(しかし、『白』の名を使ってしまった)
 クローナが『白』の名の下に命令を出したと言うことは、これまで以上にはっきりと、グライセラが『黒』の行動を援護していると表明しているのと同義である。つまり、今後『黒』が惨事を引き起こした場合、もはやナルーシェの時のような理屈は通用しなくなるということだ。
 セルリアが人道的に許されない術を使ったと言っても、それはあくまで自国民に対してのことだ。国内からの反発は生じようが、そのこと自体、国際的に反発が起こる、というわけではない。
 一度戻るべきか、と男は判断した。
 もはや『黒』は人目を避けて、或いは配慮して、道ならぬ道を進むことはないだろう。去っていったセルリア軍と『失黒』の女を追って、脇目もふらずに突き進むに違いない。
 そうなると、むしろ偵察が必要となるのはセルリア側の動きの方だが、そちらにはさすがに数名配置されている。男が敢えて、それに加わる必要はない。
(……いったい、どうなるのか)
 セルリアを追い詰めて、『黒』は何を得ようとしているのか。
 答えのでない問いを頭の片隅に残しながら男は、その場を後にした。

 *

 術師から命令を受け、『失黒』を運んでいた男は、ぎよっとして目を見開いた。
 いつの間にか、『失黒』の目から涙が流れている。
「お、おい……」
 仲間を促せば、彼もまた同じように体を強ばらせた。
「報告に行ったほうがいいかな?」
「莫迦言え。涙が出てるだけで、別に痙攣してるとかいうわけじゃないんだぜ?」
「そ、そうだよなぁ……」
 微動だにしない女は、呼吸まで浅い。目を開いていなければ、深く眠っていると見えただろう。『黒』に向かっていったときの俊敏な様子は全くなく、細い手足は粗末な戸板の上に無造作に転がされている。
 表情はない。感情など一切窺うことの出来ない無表情。だからこそ、その涙は、異様だった。
「なぁ、……なにやったら、この人が『黒』に剣を振れるってんだ? どう見ても……」
「しっ。滅多なこと言うなよ」
 基本、術師と名乗れるような術研究集団の上層部の人間には、軍人も殆ど会うことはない。軍所属の術師以外は、機密保持の為行動がそれなりに制限されているからだ。故に、全く仕組みの判らない術を創り使う、高位の術師の考えていることは想像もつかなかった。
 ただひとつ判るのは、彼らが下手な力自慢よりも遙かに恐ろしい存在である、ということだ。加えて、司令官の知人ともなれば、まさに、軽口が身を滅ぼすだろう。
 同僚の忠告に、男は口を噤む。
(……だけど)
 何故、『失黒』は泣いているのだろうか。『黒』を殺害できれば、栄誉ある人生が待ち受けている。普通は、望んでも得られない能力なのだ。
「なんで泣くのかな」
「『黒』が怖いからじゃないのか」
 同僚の声は素っ気ない。
「『失黒』っつーたって、『白』みたく全く平気ってわけじゃないらしいぜ」
「そうなのか?」
「聞いた話だよ」
 肩を竦め、この話は終わりとばかりに同僚は御者台で鞭を振るう。確かに下っ端の兵卒が、気にしてどうなるという話ではない。要は、倒れた『失黒』の体をこれ以上損ねることなく、隠密に運べばいいのだ。
(判ってるんだけど)
 一応は同僚の言葉に頷きつつも、男はそれから何度も後ろの荷台を振り返った。
 何故か、無表情なはずの『失黒』から、深い悲しみを感じる。
 しかしそれが何故であるのか、男には判るはずもなく、荷馬車はただ、ひと気のない道を単調に進んでいった。


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