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(12)

 騒がしい、とスエインは思った。
 一時的に膨れあがった軍隊がその姿を消し、妙に閑散とした空気の漂うリーテ・ドール。その中心となる施設の一室で、スエインは長い時間座り続けている。既に夜の帳は落ち、窓を見つめれば己の顔だけが妙にはっきりと映りこむ。遙か下を忙しなく行き交う灯りを見れば、与えられた平穏な時間も終わりを察しざるを得ないが、それでも自分から動く気にはなれなかった。
 うわ言を繰り返す部下に目を戻し、スエインはため息を吐く。『黒』の暴走の中心に居り、そのために町まで飛ばされず、『黒』の従者によって解放された部下、バルド。怪我らしい怪我は殆ど負って居らず、かすり傷も既に痕跡さえ残ってはいない。しかし、彼の精神は、深く深く侵されてしまった。寝食も忘れ、ただただうなされ続けている。
 勇敢だった男の、ひどく歪んだ顔、その額から落ちる汗を拭い、スエインは拳を強く壁に叩きつけた。部屋全体が悲鳴を上げるほどの衝撃に、しかしバルドからの反応はない。
 『黒』の暴走に巻き込まれた者全てに穢れが移るというのは無論迷信でしかないが、同時に全く根拠のないものではないということを思い知らされる。バルドを蝕み苦しめているものは、やがて彼本来の力、髪の色を黒く変え、その瞬間に彼の生命を奪っていくだろう。それが、『黒』の穢れを受けた者の末路である。
 穢れ、と呟き、スエインは知らず、身を震わせた。
 その正体は長年謎とされていたが、今の彼にははっきりと判る。それは、『黒』の力そのものだ。暴走の際に『黒』から滲み出る深く濃い闇、それに触れた者だけが『黒』の浸食を受けて狂っていく。同じく『黒』の暴走の現場に居合わせ、『黒』の呼んだ風に飛ばされたスエインやテラになんら異常がなく、バルドにだけその症状が出た理由を考えれば、答えなど火を見るよりも明らかだ。
 黒い靄、或いは深すぎる闇。『黒』を『黒』たらしめているものの正体。あのような恐ろしいものを内包し、普段は正気を保っていることの方が異常なのかも知れない。
「失礼します!」
 激しく扉を叩く音に、スエインはのろのろと顔を上げた。入室の許可と同時に、あまり馴染みのない兵が扉を弾くようにして転がり込む。よほど慌てているのか、制服はひどく乱れていた。
「申し上げます! ふ、副隊長がお戻りになりました!」
「それは、いちいち報告することか?」
「それが、それが、……『黒』の一行を後方に伴っているというのです!」
「それで?」
 深く嘆息し、スエインは重い腰を上げる。
「三色の伴を連れた『黒』は拒めない。なら、迎えるしかねぇだろうが」
「し、しかし……!」
「団長や術師どもは行った。これだけの人数ではどうしようもない。加えて、多くの非がこちらにはある」
「隊長……?」
「テラが先に戻ったのなら、まだ時間はあるだろう。住民共を避難させてから、門を開けろ。多少遅れるかも知れんが、それくらいは待って貰っても構わんだろう」
 へたり込んだ兵を無理矢理立たせ、襟首を後ろから掴み上げる。
「病人の療養の邪魔だ。とっとと出て、命令を広めろ」
 反論を許さぬ眼差しで行けと命じると、すくみ上がった兵は足をもつれさせながら走り去って行った。暗い廊下に響く足音が小さくなるのを待ち、スエインはちらりと視線をベッドの方へ向ける。だが、そこに期待した変化が見られないのを確認すると、彼は一度緩く首を振り扉を閉めて自らも部屋を後にした。
 そうして、慌ただしく通路を駆ける兵を横目に、術者たちの棟へと足を向ける。窓一つ無い通路は相変わらず、無限回廊のような錯覚をすり込んでくるが、さすがに今はもう、迷うというほどではない。だが、ルエロに連れられて術師たちがこぞっていなくなると、以前はまだしも生活の音がしていたのだと実感させられる。
 乱の果てに廃棄された王城のようだ、とスエインはひとりごちた。
(馬鹿馬鹿しい……)
 一度戻ってきたグエンたちの命令を断り、ひとり、リーテ・ドールに残ることを決めた自分を、スエインは嗤う。別段、反抗したかったわけでも、そういう態度で自分の価値を計ったわけでもなかった。現に、さほど引き留めもせず、あっさりと許可を出されたことには何の感慨も抱いてはいない。見捨てられたとも見限られたとも、全く思わなかった。
(……理由か)
 口にすれば、狂ったと断じられても致し方ないだろう。だがスエインはグエンから王都へ引き上げる旨伝えられたときに、思ったのだ。――『黒』と、話がしたいと。だから、ここに残りたいと。
 どんな内容を、と聞かれれば言葉に詰まる。それは次に『黒』と対峙したときに湧き出るだろう感情、それがそのまま答えであるのだろう。
 ひとつの扉の前で足を止め、スエインは一度呼吸を整えてからその取っ手に手を掛けた。某かの術が仕掛けられていると思いきや、何の抵抗もなくあっさりと扉は内側に開く。手の先に光を灯せば、そう広くもない室内は手に取るように一望できた。
「研究室、か」
 ここで『失黒』の女が実験台となったと思えば、僅かに胸が痛む。だが、ここには感傷に浸りに来たわけではないと、スエインは誤魔化すように青い髪を掻き混ぜた。
 一度室内をぐるりと見回し、目的のものがあるだろう場所に見当をつける。彼が探しているものは、極秘の研究資料などではない。ただの資料と言えばそれまでの代物であり、故に、隠されては居ないだろうと本棚に向かう。神経質な研究者らしく、分類が細かくされていることがこの際はありがたい。
 案の定、と言うべきか。室内に足を踏み入れて数分、予想よりも短い時間でその冊子はスエインの手に収まった。思ったよりも厚くはないそれを、ある種の感慨を持って眺めやる。
 ゆっくりと開けば、数十年前の埃が、小さな光の中に舞い上がった。
(そう言えば、あの方も殿下と呼ばれていた……)
 思い、薄くなった記憶に瞼を閉じる。
 それは遠く、あまりにも朧気な……
「……先輩」
 珍しくも気弱な声に、落ちかけた思考が現実へと浮上する。ゆっくりと目を開けて戸口を振りかえれば、そこには、いつになく緊張した部下の顔があった。
「戻ったのか。よく、ここが判ったな」
「一度、会議室に行ったんですが、そこで、研究棟に向かったと聞いて。……扉が、少し開いてましたから」
 そうか、とただ頷くスエイン。その、いっそ素っ気ない態度に不安を増したか、テラは突然その場に膝を突いた。
「申し訳ありません!」
 震える声に、スエインは目を丸くする。
「『黒』を、『黒』をここまで連れてきてしまいました。あれほど、憎いと思った『黒』を、私は……」
「……」
「軍の方針にも逆らい、人としてとんでもない事を……、どんなお咎めも受ける覚悟です。しかし……!」
「いや、テラ。お前は正しい」
「え?」
「お前は真実を知り、父の仇を討ちに国に牙を剥いた。それだけだ」
 言い、スエインは古い、ひどく変色した紙の束をテラの前へ放り投げた。それらを綴じていた紐が解れ、数枚が床に滑り落ちる。


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