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 拾い、訝しみながらも冒頭に目を落としたテラは、急激にその顔から色を失わせた。
「……これは!」
「かつての『黒』の施された術の記録だ。犠牲者たちの一覧でもある」
「犠牲者……」
「お前も、生きて帰ってきたなら、『黒』を抑えたあの術を見たんだろう?」
「! 先輩は、あれを知って……?」
 言葉に詰まり、スエインはテラから視線を逸らす。そうして彼は、覚えのある痛みから強く眉間に皺を寄せた。
 莫迦だった、と数十年前の自分を振り返る。当時スエインは、長い歴史の間で延々と恐れられていた『黒』の力を、何の犠牲も代償もなしに、普通の術で抑えられていると思いこんでいたのだ。実際に、力を解放した『黒』を見たこともないというのに、己の国の技術を、教えられるがままに過信していた。否、疑うことの方が恐ろしかったのかも知れない。
 限界は突然訪れ、――絶対の信頼が崩れ去り、現実の顔に愕然としたのは、全てが終わった後だった。
「お前の父親も、犠牲者のひとりだ。『黒』の暴走の時に怪我を負った。多分、致命傷じゃなかった」
「王宮で働いている兵は多いはずです。父は、そんなに上だったわけでも、有名だったわけでもありません。なのになんで、先輩が知ってるんですか」
「同じ役目だったからだ」
 言い、スエインは覚悟を決めるように顔を上げた。一度扉の外を眺め、ルエロの研究室内を一巡し、最後にテラの、動揺に揺れる目に視線を戻す。
「お前には、聞く権利があるな」
 呟き、スエインは再び、薄く、しかしいつまでも脳裏を漂い続ける記憶を呼び起こす。
「知りたいか?」
 問いかけに、テラは一瞬目を見張り、肩を震わせる。隠されていたことを暴く好奇心と、隠されていた意味への防衛本能の間で、彼女の気持ちは揺れ動いているようだった。
 だが結局、彼女は知ることを選ぶ。
 蒼褪めた顔で、しかしはっきりと頷いたのを認め、スエインはゆっくりと口を開いた。

 *

 同刻、セルリアの王都、王宮――会議室。
 リーテ・ドール方面より急遽引き返してきた第一師団長、グエン・エシュードを迎い入れ、さほど大きくもないその部屋は、緊張感に重く淀んでいた。一段高い位置に立つ国王は別として、グエンを取り囲むように形成された半円の顔はそれぞれ苦く、沈鬱な表情に深い陰影を刻んでいる。
 『黒』があと一日も待たずに王都へ到着するという報告が、衝撃とともに皆から声を奪い去って数分。グエンが押し黙り、国王が沈思した後は、もはや積極的に意見を述べようという者は皆無だった。それを端から眺めやるラゼルもまた、例外ではない。
 否、正確に言えば、ラゼルは口を挟む機会を図りかねていた。
(なんとか、――『黒』と話すきっかけを得なければ)
 焦るほどに、時間は容赦なく消費されていく。だが、この緊迫した場で、どう言えば良いのかも判らない。本来ならば、エルリーゼの護衛の任を離れる許可を取り付けるはずであったのだが、グエンの撤退があまりにも早かったために、国王に面会する時間すら得られなかったのだ。この会議で方針が決定してしまえば勝手な行動など取れなくなるだけに、尚更ラゼルは必死だった。
 今更、絶対に『黒』に会おうとはしないだろうエルリーゼに無理強いする気などない。彼女にそれを促すよう、国王やグエンを説得することは不可能だとも身に染みている。だからこそラゼルは、自ら『黒』に会い、「セルリアの金」を求める理由を聞き、セルリアの過去を話すことで妥協点を探ると決めた。セルリアが『黒』の要求を呑む気がない以上、そうするより他に、『黒』との正面衝突を避ける手段はないだろう。
 だが、集まった面々の思惑は、『黒』をどうやってねじ伏せるかという方向に偏っている。『失黒』たるラゼルが、『黒』に与するような行動を取ることなど、許される雰囲気ではない。
「陛下。ご裁可を」
 グエンの低い声が、国王を促した。彼は、『黒』への徹底抗戦を迫っている。王都の前に防衛線を築き、そこで迎え討とうと言うのだ。一度は撤退したものの、足止めが今の『黒』にも効くことと、新たに得た『失黒』が確かにその名に恥じない能力を持っていることを確認したことで、成果は充分上げられたと主張する。
「『失黒』の体調さえ整えば、後は伴である三人の援護を封じることで、『黒』を殺すことも可能です」
「『黒』は明日にもやって来るのだろう? それまでに『失黒』の体調とやらをどうにか出来るとでも言うのか?」
「はい。――もっとも、これは私には判断いたしかねることでありますが、術師はそう申しておりました。いえ、むしろ、調整するために、敢えてリーテ・ドールには止まらず、王都へ戻ってきたのです」
 詳細をぼかすような言葉に、数人が訝しげに顔を上げた。
「『失黒』は異世界の者。衰える力を満たすには、原点に返るのが一番ということです」
「――なるほどな」
 更に幾人もが首を傾げる中、国王は理解を得たようにため息を吐く。
「そのあたりは好きにするがよい。だが、王都の郊外を戦場にするのは許可できぬ」
「しかし、それでは」
「兵を無駄死にさせる必要もあるまい。『黒』が規定通り、三色揃えて王都の城門を叩くなら、受け入れざるを得ないだろう」
「! 陛下!」
 これには、高官から口々に非難の声が上がった。身を乗り出す面々を眺め、頃合いを見計らって国王は片手を挙げる。
「これ以上、国の評価を落とす気か?」
「……」
「国際的に取り決められたことを反故すれば、国の信用は失われる。それがどれだけ、心情として理解しうることでも、今後の隣国との関係に問題が生じるだろう。街単位の行動であれば、国の方針ではないと断りもできるが、王都となればそうも行くまい。故に、『黒』があくまでも法に則るなら、追い返すことはできん」
「では、では、『黒』に屈すると?」
「王宮の前庭で向かい討てばよい」
 言い切り、国王はグエンを真正面から見つめた。
「万が一のことがあっても、街に被害が及ぶことはないように術で防護を強化しておけ」
「――はっ」
「エルリーゼは出せぬが、わしが出よう。『黒』も祖国の不利益になるようなことは避けるだろう。わしを殺せば、グライセラとて非難は免れまい」
「……陛下が囮になる、と?」
「むろん、お前たちにもそれ相応のことを求めておる」
 今度こそ『黒』を阻め、失敗は許さない。言葉の裏にある圧力に怯んだ者が幾人か、冷や汗と伴に喉を鳴らす。だがグエンは、特に気負った様子も怯んだ様子もなく、無感動な調子で深々と腰を折った。『黒』に対しての作戦によほど自信があるのか、様々な事態を想定してとうに肚を括っているだけなのかは判らない。
「必ずや、ご期待に沿いましょう」
 芸のない決まり文句で言葉を切り、そのまま室を出て行くグエンの背中に、皆の視線が糸を引く。中心人物をなくした会議の場には、不安と期待の入り乱れたざわめきが満ちていった。


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