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 長年にわたり国王の補佐を務めてきた官吏が、躊躇いつつも主に疑問を投じる。
「陛下、……『黒』と対面されて、何を?」
「さてな」
 思案するように、しかしその実、言葉などとうに決まっているかのように、国王は短く息を吐いた。
「恨み言でも言おうか、ここまでよくやってきたと讃えようか」
「それは……」
「冗談だ。『黒』次第だ」
 煩わしげに手を横に振り、国王はゆっくりと目を閉じた。それを見て、補佐官は恭しく頭を垂れる。彼が失言を吐いたとは思えないが、国王には答える気のない質問だったのだろう。その姿を見て、他に何人か、問いたげな視線を向けていた者たちが諦めたように顔を背けた。
(相変わらず、何を考えておられるのか)
 どちらかと言えば明朗な国王だが、この件に関しては本心を明かさない傾向にある。それは、この局面に至っても、全く変わっていないようだった。副官やその他の重鎮が困惑するのも無理はない。
 緩く頭振り、ラゼルは短く息を吐いた。単独行動の許可を得るつもりで望んだ場ではあったが、今の国王の様子では、到底色よい返事は得られないだろう。対『黒』の方針も定まってしまった。無論、ラゼルにそれを覆す力などない。
(何十年と、無為に過ごしてきた結果か……)
 積極的に地位や人脈を築いて来なかったが故の無力に、ラゼルは苦い笑みを落とした。そうして、この場で得られるものも訴えることもないと、退室の許可を得て室を後にする。実質的に会議は終わったとした方がいい状況だが、消化されないままの不安を共有したいのだろう、ラゼルに続くものはいなかった。
 この後、どうしようかと思案に俯きながら、人気のない廊下の角を曲がる。――と、ラゼルはそこで、ぎよっとして足を止めた。
「……なにやら、悩んでいるようだな」
 重々しい声に、恐る恐る顔を上げる。
「なんぞ、不穏なことでも考えているのではあるまいな」
「エシュード様、……そのようなこと、滅相もない」
 一歩後退りながら、ラゼルは掠れた声で否定の言葉を口にした。心拍が急激に跳ね上がったのには、むろん、それだけの理由がある。具体的な方法までには至らずとも、このまま誰にも告げず秘密裏に『黒』と会う、そういった選択肢を全く考えなかったわけではないのだ。
 冷たいものを背筋に感じながら、ラゼルは努めて冷静さを装いグエンに質問を返す。
「しかしながら、エシュード様は少しばかり前に退室なさったはず。どなたかをお待ちになっておいでですか?」
「答えねばならん義務でもあるか?」
「……いえ」
「まぁ、いい。ひとつには、お前を待っていた。用件は、先ほど言ったとおりだ」
「……それはそれは」
「『黒』と話し合えるなどと、下らん夢を抱くなよ」
「っ、」
 用件は済んだ、そう告げた直後の一撃。先の効果に生じた気のゆるみへと容赦なく打ち込まれる。実に絶妙な間合いをもって仕掛けられた攻撃を回避する手腕などなく、ラゼルはその顔に、息の詰め方に、本音を露呈してしまった。
 グエンは、僅かに口の端を曲げて鼻息を鳴らす。
「ふん、――やはりな」
「エシュード様」
「お前の考えそうなことだ。『黒』に情を持って説こうとするあたり、救いようがない」
「しかし……! これまできちんと筋を通してきたことから、話の分からない人物ではないと思います」
 突然の展開、しかしこれ以上はない機会に、ラゼルは声を張り上げた。幸い、会議室から出てくる者はなく、扉番をしている兵以外に通りがかる者もいない。
「こちらの事情を説明して、向こう言い分もよく聞き、『黒』の求めることのうち、妥協が可能なところを引き出して、なんとか、正面衝突を回避しなければ、また、出さなくて済むはずの犠牲が生じます。過去多くの国が『黒』を討伐しようと勇み、同じ数だけ失敗を繰り返してきた例をお考え下さい!」
「……それで? 『黒』の言う理由とやらがまともなもので、王女への面会もやむを得ないものであったら、お前はどうするのだ?」
「それは……その時は、我が国も、約定を果たすしか、」
「お前は『黒』を殆ど恐れぬ。だがその考えは、異質に過ぎると思った方がいい」
「しかし! 何も、『黒』とひとりで会えとも、何時間と共にいろとも言っているわけではありません! ただ遠くから、『黒』の目の届く範囲に出るだけです! それで、会わせたということにはなるでしょう、それも無理とおっしゃるのですか!」
「無理だ」
 言い切り、グエンは厳しい目をラゼルに向けた。
「『黒』に会った後、殿下が正気を保てるとでも思っているのか?」
「……それは」
「化け物が来る、と判っただけであの反応だ。『黒』と対面などした日には、今度こそ本当に、恐怖に心を殺されてしまうだろうよ」
 そこまではあり得ないと、ラゼルもまた言えずに口を閉ざす。
「忘れたか、ラゼル」
 苦い声が、ラゼルの耳を叩く。
「あの時の悲劇を忘れたか」
「! ――忘れなど、できはしません」
「そうだろうとも。あの日、生き残った者は誓ったはずだ。二度と、『黒』にこの地を穢させはしないと。ただひとり、最後の直系たる殿下を、王家の血筋を守らねばならん。絶対に、だ」
「しかし、――その為に、王都の民を犠牲になさると!?」
「犠牲になどはさせん。だからこそ、持ちうる全ての術を使い、『失黒』で『黒』を討つ」
「!」
「お前の役割は36年前に終えた。何も期待はせん。余計なこともするな」
 冷えた声に、ラゼルは強く掌に爪を食い込ませた。
「『黒』に対し、情を覚えるなら、思い出せ。あの日の後悔と絶望をな」
 36年前、――全ての終わったあの日。周囲に立ちこめる死の臭いと嗚咽の中でラゼルは、世界の中心を失った。覚えているのは、疲労と脱力感。そして何よりも強い喪失感。
 思い出すまでもない。それは「彼」を射た瞬間から今まで、ラゼルから離れたことのない感情である。喜びも悲しみも、――どんな出来事も、全てはあの日の上に降り積もり、けしてラゼルの心の深淵にまで落ちてくることはなかった。奥底にはただ、「彼」と共に過ごした日々が淡い光を放っている。
(忘れなど、しない……)
 ……歯車が、逆さに回る。あの日から分岐点へと、分岐点から平穏な日々へと。滑らかな動きで、記憶は遡行する。
 やがて到達する起点。遠い記憶の始まりは、白い程に眩しい、夏空の一日だった。

 *

 ラゼルの両親は、所謂移住者だった。知り得た真実を言うなら、自国を逃げ出した犯罪者という但し書きを付け加えねばならぬだろう。しかし、そんな事実は、それ以上に大きな傷痕を前に、ラゼル以外の者からは忘れ去られてしまっている。


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