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 『黒』の被災者、その息子。それが全てであり、たったそれだけの、彼自身にはどうしようもない要因が、当時11歳になったばかりの彼の運命を大きく揺るがした。
 雨期の終わった夏の初め。この時期にしかない湿気と強くなる一方の陽光が体力を奪う中、ラゼルは身の丈倍以上もある大人の手に引かれて、はじめてセルリア王宮の階段を昇った。強い光を反射しないようにと、街中の建物が些かくすんだ色に塗装されているにも関わらず、城の持つ色は鮮やかに蒼い。いくつもの細かいタイルによって描かれた文様は美しく、幼いラゼルの目を奪うには充分すぎる代物だった。
「きょろきょろするな」
 舌打ちと共に、低い叱咤の声が落ちる。咄嗟に首をすくめ、ラゼルは次に来るだろう衝撃に身構えた。――だが、いくら待てども、事は何も起こらない。
 恐る恐る見上げた先の顔は、恐ろしく無表情だった。
「折檻などしない」
「え?」
「お前の役目は、これからお前の主となるお方の機嫌を損ねぬことだ。『黒』の災厄に穢れたお前が、唯一生きられる場所なのだからな」
「……お父とお母は?」
「知らぬ方が良いこともある」
 男にしてみれば、それは逃げ道であり気遣いでもあったのだろうが、生憎とラゼルはその意味が判らぬほど、安穏とした生活を送ってきたわけではなかった。根拠はなく、しかし確信をもって、両親は殺されたのだと悟る。
 彼らはいつも何かに怯えていた。そしてそれは他者をも怯えさせるに充分な事で、それ故に彼らは処刑されたのだ。
 ほぼ真実に近い回答を瞬時に弾き出し、ラゼルは掴まれた手に僅かに力を込めた。その、如何にも心細げな指先を、男がどう受け取ったのかは判らない。前を見据える顔からは何の反応もなく、幼いラゼルにはその心中を解読する手段を持ち合わせていなかった。自分の周りにいる人々が死に、離れていく、その感覚に慣れすぎていた彼自身もまた、恐怖と寂寥と訴える感覚に鈍磨していたとも言える。強いて言うならば、ただ、事情を知りつつも手を握ってくれている、その事実だけで充分だったのかも知れない。
 ――それにしても、長い。城の脇道を通り、重々しい雰囲気の門を幾つもくぐり抜け、その度に厳重な身体検査が繰り返された。呆れるほどの警戒態勢に、ラゼルの緊張はいやが上にも高まってくる。いつ着くのか、そこに何が待ち受けているのか、硬い表情の男からは聞き出せそうにもない。奴隷同然にこき使われ、年齢に合わぬ持久力と忍耐力を持っていたラゼルだが、当然限界はある。
 疲労、そして先の見えない不安に、さすがに弱音を口にしかけたとき、――突然、その庭園は姿を現した。
「え……」
 花の咲き乱れる庭、風を受けてそよぐ瑞々しい若木、どこから引いてきたのか、小さな噴水からは水が滔々と溢れ、眩しいほどの陽光を弾いている。地面は短い草に覆われ、セルリアという国の持つ乾いた印象は微塵にも感じられない。
「ここは……」
「楽園だよ」
 応えたのは、手を引いてきた男ではなかった。
「やぁ、君がラゼルかい?」
「あ、……は、はい!」
「いい返事だ。ここまで来るのは疲れただろう。おいで」
 穏やかな笑みを浮かべつつ、男に向けて僅かに顎をしゃくる。それを受けて、男は促すようにラゼルの肩を叩いた。付いていけということらしい。あまりに急な展開に戸惑いを隠せぬラゼルであったが、不思議と逆らう気にはなれなかった。
 新たに現れた男――青年が、件の主人だろうか。品の良い雰囲気で、物腰も柔らかい。大人びて見えはするが、顔にはまだ少年の色が残っており、せいぜい20から25、といったところだろう。仕立ての良い服に身を包み、複雑な模様の組紐で、桃色に近い、薄い赤の髪を緩く結わえている。ここまでラゼルを連れてきた男のしゃちほこばった様子からすると、相当身分の高い人物であることは間違いない。
 急ぎ、男の後を追ったラゼルは、彼の指が男にしては細く節くれ立ってもいないことを目に止め、更なる緊張に喉を鳴らした。
「ネーベル」
 振り向きもせずに、青年が後ろの軍人に向けて呼びかける。
「君、確か来年には子供が生まれるんじゃなかったかな」
「は? いえ、はい。それが何か……」
「それなら、子供の扱いは少しは覚えた方が良い。見なさい、この子の手に君の指の痕が残ってる。痛かっただろう?」
 最後の言葉は、ラゼルに向けられたものだ。驚き、見開いた目で男を見つめたラゼルは、慌てて首を横に振った。
「大丈夫です。僕が何度も転びかけたから、引っ張り上げてくれて、それで赤くなったんだと思います」
「そう?」
「はい。ちっとも痛くありません」
 事実、親切とは言えないにしても、これまでラゼルが受けてきた扱いに比べれば、むしろまともな部類に入るだろう。青年はしばらくの間無言でラゼルを見つめていたが、やがてそこに嘘がないことを認めたか、端正な顔に惚れ惚れするような笑みを浮かべた。
「良い子だ」
 頭に軽く置かれた手は優しい。今までにない待遇にどう反応して良いのか判らず、ラゼルはぎこちなく笑い返すだけで精一杯だった。
「殿下、そろそろ」
「判ってるよ」
 促す声に頷き、殿下と呼ばれた青年は石畳を進む。手の中にあるのは、先にある瀟洒な建物の鍵だろうか。
(……殿下、って)
 世情に疎い子供でも、その敬称の示す意味くらいは理解できる。
「シドニエル殿下!?」
「ん? 呼んだかい?」
 振り向いた顔に屈託はない。
「国王でもない王族の名前を覚えているとは、なかなかどうして、情報通じゃないか」
「……殿下、失礼ですが、誰でも知っております」
 軍人の男の言葉に、ラゼルは大きく頷いた。
 シドニエル・セライア。セルリアの正統な後継者として、その美貌、英知で噂を掠う、現国王の嫡子である。国民の前に姿を現すことは稀なセルリア王族にありながら、下町まで名前が届くのは、それだけ彼に対する期待が高いということだろう。他に競争相手となる王族もなく、今は宰相について政を学んでいる最中だと言われている。
「そう? おかしいな。僕の名前はよく間違われるんだけども」
「そのような不敬、致しません」
「ふーん、まぁ、いいか。ところで、どうしたんだい?」
 向けられた笑顔に、ラゼルは思わず一歩後退る。なにせ、一生会うことなどないと思っていた類の人物なのだ。気易く接せられてもどう対応して良いのかが判らない。シドニエルの方から話しかけたとは言え、きちんと礼を取って名乗らなかったことを焦るには、今少し、ラゼルに年と経験が足らなかった。
 じっと見つめられ、居心地の悪いままに、ラゼルは必死で言葉を探す。
「……その」
「ん?」
「で、殿下が僕のご主人様になるのでしょうか……」


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