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 青年は、何度か目を瞬かせた。そうして、得心がいったように再び笑う。
「違うよ。僕はただの案内人。君の主人になるのは……」
 言い、いつの間にか目の前に現れた扉に手を掛ける。
「……彼だよ。さぁ、入りなさい」
 ちりん、と微かな音が鳴った。タイミングを合わせたように、ざあ、と梢を揺らす風。花弁が宙を踊る。
 飛んできた木の葉を避け、なぶられた髪を掻き上げ、ラゼルは細めた目を開け放たれた扉の中に向けた。
「……!」
 外観と同じく、異国風の繊細な内装。白を基調とした優美な装飾の天井から、午後の眩しい陽光が降り注いでいる。見事な細工のステンドグラスの絵は磨き抜かれた大理石の床に落ち、室内を鮮やかに彩っていた。
 楽園。まさにシドニエルが指摘したとおりの光景が目の前に広がっている。――だが、本来なら興奮に四方八方を眺め回すはずのラゼルの目は、一点に固定されていた。
「……だれ?」
 キーの高い、幼い声。
「にいたま?」
 舌足らずな声の主は、小さく紅い唇を開けたまま、白い顔を傾けた。ふっくらと、あどけない輪郭。形良く整った顔は驚きを宿し、長い睫に縁取られた目がこぼれ落ちそうなほどに見開かれている。
 顔立ちだけをみるならば、創世神話にでも出てきそうな、創造主の愛すべき僕と比喩されるだろう。だが、その類い希な美しさが全て無に帰すほどの、――誰もが顔になど目を向けないほどのものが、小さな頭の上に存在した。
「……『黒』」
 子供特有の、艶やかな髪が宿す色は、闇夜よりも深い漆黒、この世で最も呪わしい存在、――『黒』。ラゼルは知らず、震える足で後退った。顔面から血の気が引き、頭の中が真っ白に漂白される。
「ラゼル」
 平坦な声が、ラゼルの耳朶を叩く。
「挨拶を。彼が君の、これから仕える主人だ」
「……あ」
「君は、以前にも『黒』と遭ったことがあると聞いているのだけどね」
 言い、シドニエルは軍の男を振り返った。
「ふれこみは、嘘ではないな?」
「はっ……。間違いありません。おそらくは、視覚的な問題で混乱しているだけだと」
「まぁ、それもそうか」
 眉をハの字に下げ、仕方なさそうにため息を吐いたシドニエルが、硬直したままのラゼルの肩を叩く。ぎこちなく、それこそ首から音がしそうなほど機械じみた動きで顔を上げ、ラゼルは動揺に揺れる眼を彼に向けた。だが、言葉が出ない。90パーセントの恐怖といくつもの種類の疑問が、頭の中を走り回っている。
 苦笑し、シドニエルはラゼルの髪をかき混ぜた。
「落ち着いて、感覚を研ぎ澄ませてごらん。彼から、『黒』の気配を感じるかい?」
 妙なことを言う。『黒』の気配のない『黒』など、居るわけがない。
 心の中で反発し、しかし、雲上人の言葉に逆らえるわけもなく、ラゼルは目を閉じ、無理矢理黒い髪を意識の外に追い出した。そうして、――ふと、違和感を覚える。
「……?」
 以前『黒』に遭遇したときに感じた、強烈な恐れ、嫌悪、そういったものが意識の外部から感じられない。
「……おかしいです」
「そうだろう」
 満足げな声で、シドニエルが言葉を継ぐ。
「あの子は確かに『黒』だ。だが、恐れることは何もない。『黒』としての忌まわしき力は抑え込まれているから」
「そ、そんなことが、できるんですか?」
「……出来るようになった、と言うべきだろうね」
 僅かな間が何を示すのか気付くこともなく、ラゼルは興奮に頬を紅潮させた。もしか、青年の言葉が本当なら、これから先、偶然に『黒』と遭遇したばかりに、それだけのために不幸になる人間がいなくなるということになる。それは、両親の辛い生活を見て、自身も虐げられて育ったラゼルには、まさに夢のような話であった。
「すごい……」
「ああ、素晴らしい技術だ」
 歩き、少年とも言えぬ幼児の横に膝を突いたシドニエルは、彼を兄と呼んだ子供に向けてゆっくりと口を開いた。
「さぁ、ラゼルに名前を教えてあげなさい」
「ら、ぜる……?」
「今日から、君と一緒に居てくれる子だよ」
 子供の黒い目が、躊躇いもなくラゼルに向けられる。さすがに体を震わせ、ラゼルは両足に力を込めた。
 そんな彼の恐怖には気付いた様子もなく、いっそ無邪気に『黒』は笑う。
「あおらす、です」
「違うだろう? ほら、もう一回」
「あ、ろ! らす、です」
「良い子だ」
 微笑みながら、シドニエルは立ち上がる。
「ラゼル、よろしく頼む。仕事は、この子の相手をしてくれればそれでいい。私たちは、さすがに長い時間構ってられる余裕がないのでね」
「僕もここに住むんですか」
「飲み込みが早いね」
「家の中が荒れている様子もありませんし、そういった役目の人は他に居るんだと判ります。でも、その人たちが直接、その、……お世話しないのは、何故ですか」
「それはね、君自身が初めて彼を見たときの反応を思い出してみれば判る」
 思い返し、ぐ、と喉を唸らせたラゼルを見て、シドニエルは一度小さく頷いた。
「髪が黒いというだけで、何者かが判ってしまう。そして皆が怯え、恐慌に陥る。そこに実質的な被害が及ぶことはないと言われても、そうそう、信じる人は少ないだろう。きっと誰かが彼を不当に傷つける。彼は生まれた瞬間に『黒』という枷を付けられた。これ以上、傷つけられる必要はないんじゃないかな」
「僕が、傷つけないという保証はありません」
「他よりはましさ。『黒』に接したことがある。多少なりとも免疫がある。実際に『黒』に直面したときの、想像も付かないような恐怖を知っている。だから、僕が大丈夫だと言った言葉を素直に受け止めることが出来た。違うかい?」
「それは……」
「そして子供は、大人よりも遙かに柔軟な思考を持つ。それが君の選ばれた理由だ」
「では、危険でないなら、何故王宮から離れた場所にいなくてはならないのですか?」
「……君は、なかなか聡い」
 褒めるような嗜めるような、複雑な声にラゼルはぐっと顎を引く。
「しかし、先ほどの質問と同じ理由だよ。必ず、疑い、怯えるものが出る。そうなると、国として好ましくない方向に行くのでね」
 どう説得したところで、『黒』の存在に怯え王都から逃げ出す者が続出するだろう。諸外国からの商人の足も遠のき、流通は滞り、低下した経済状態からは国に対する不満が噴出する。不信感は暴動を生み、麗しの王都は乱れ、やがては国の崩壊を招く。薄ら寒い未来予想ではあるが、おそらく実際には、それよりもひどい状況になるだろうこと、子供であるラゼルにも想像に易かった。


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