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 だが、とラゼルは思う。――そんなリスクを抱えてまで、『黒』を生かすのは何故だろうか。
 疑問が表情に出ていたのか、これまでの流れから察するに容易だったのか、彼の心を読んだように、シドニエルは皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「……この子の母親はまぁ、所謂陛下の妾でね。だけど、とてもいい人だった。母よりも長い間陛下と共に生きてこられたくらいだが、なかなか子に恵まれなくてね。ようやく妊娠したときは、皆が自然に喜んだものだ。普通なら権力争いに発展するところだけど、今更、僕と王位継承権を争うほど、年も近くないからね」
「では、その方の希望ですか」
「いや、彼女は『黒』を産んだことにショックを受けて亡くなった。陛下もすぐに、しかるべき処理をしようと術師を集められたのだが、その中のひとりが、『黒』の力を抑える術を編み出したと進言したんだ。それが切っ掛けさ。結果は、言わなくても判るね」
「つまり、こう言ってはなんですが、実験されている、と……?」
「手厳しいね。そういう面があることも否めない。ただ、『黒』を感じないときのこの子のことは、皆可愛く思っている。大事な人の忘れ形見だし、この子自身も性質が良く賢い。君もそれは、この子と過ごしてみれば判ると思う」
 最後の言葉に、ラゼルは顔を歪めた。
 難癖とまでもいかない、小さな抵抗は見事に一巡して元の場所に戻されたようである。改めてラゼルは、自分に拒否権などないことを痛感した。あれこれ文句をつけたところで、今後の立場が悪くなるだけなのだろう。
 運命をありったけの言葉で罵りながら、ラゼルは額を抑えた。だが、悲観して現実逃避をしている場合でもない。どうしても、確認しておかなければならないことがあった。
「ひとつだけ、お聞かせ下さい」
「何だね?」
「もしか、『黒』の力が抑えきれなくなったと判断された場合は、どうなさるのですか」
 息を呑む音は、ラゼルの後ろから聞こえた。シドニエルは、いっそ無表情だった。何の反応も示さないままラゼルを見返し、そうして、充分すぎるほどの間を空けて口を開く。
「勿論、するべきことをするだけさ」
 淡々とした声音は、暖かな庭園に冷たく響き渡った。


 楽園はいつか失われる。
 初めての対面。晴れ渡った空、強い陽射しのもと、美しい庭園での出会い。だが、この時既に、ラゼルは崩壊の兆しを感じ取っていたのかも知れない、――と、後に振り返ることとなる。
 静かな箱庭の中の暖かい人々、家族、穏やかな日常。その中に微かに聞こえる限界の足音。
 良い子だと繰り返しながら、優しい視線を向けながら、しかし、シドニエルは遂に義弟の名を呼ぶことも、触れることもなかった。そしてそうと気付きながら、何の違和感もなく看過したラゼルもまた、修復し得ない歪みを生んでいくひとりとなる。

 *

「俺が、殿下に会ったのは事件の起こる5年ほど前だ。当時俺はまだ18歳だった。剣の腕に見込みがあるからって、15歳くらいで少年兵として訓練を受けて、全教科履修してから王宮に配属された後だ」
 スエインの声は淡々と、しかし聞き漏らすことを許さない強さを持って、殺風景な室内に響いていた。
「殿下は19歳。とても美しい方で、その色さえなければ、本当に『黒』だなんて気付かないほど、見事に力が抑えられていた。その頃には、古くから仕えていた者は慣れていたし、俺も、それを見て段々緊張を解いていったんだと思う。エルリーゼ姫も10歳ほど。生まれたときから近くにいた『黒』を、本当は恐ろしいものなんて理解出来なかったのも無理はねぇ」
 当時、そして現在も、セルリアと周辺諸国との関係は悪くはない。全てが良好とは言えぬまでも、せいぜい国境周辺で威嚇しあい、肚を探り合う程度の競り合いに収まっている。慢性的な問題とも言える都市と辺境との生活の格差にさえ目を瞑れば、歴史的に見て良き時代に分類されることは確実だろう。
 だからこそ、本来なら果断かつ迅速な決断を迫られるはずの事に、ゆっくりと時間をかけていられたとも言える。
「平穏だった。化け物を飼っていたなんて忘れちまうくらいに、穏やかだった。――けどな、生きてるんだ。変わらない事なんて、何もない。周りの大人がどんだけ神経質に当たり障りなくやってたとしても、子供ってのは、変わっていくもんだ」
「……思春期、ですか」
「そう。ぶっちゃけて言えば、ハンコーキってやつだ。そんで、男と女にはっきり別れてくる時期でもある」
 含みを持たせた言葉に、テラははっきりと動揺を示した。
「殿下は、いろんなもんに興味を持ち始めた。それまで大人しく、周囲の言うがままだったんだがな。何が悪かったというわけじゃねぇ。当然のことが起こった。それだけだ。だが、切っ掛けには充分だった」
 そうして、スエインはテラの向こう、僅かに開いたままの扉に向けて、言葉を放った。
「――お前は、どうやってそれを乗り越えたんだかな」
「!」
 テラが息を呑む。
「気付いて……」
「例の服の効果か? 随分近くまで来ても、判りにくいもんだな」
 『黒』、とスエインは呟く。その小さな音に合わせるように、扉の隙間、縦に長い光の帯が横幅を広げていく。そこに、四人分の人影。逆光に顔の詳細までは判らないが、一番手前にいるのが『黒』だということは明白だった。『黒』独特の力や存在感は上手く隠されているが、それでも、一旦気付いてしまえば気の逸らしようがない。
 気を遣っているのか、入る必要はないと判断したのか、一定の距離を置いて彼らは足を止めた。間を置いて、遠く、後方から声が上がる。
「もう、『白』の織った上着はありませんわ」
「へぇ? じゃぁ、結界か。さすが、『白』の跡継ぎだけはある」
「力は抑えてませんわよ。気配を内に隠しているだけの、姑息なものですわ。こうでもしないと、街の者が混乱しますもの」
 言い、女――クローナ・バルワーズは肩を竦めたようだった。証拠とばかりに彼女が腕を軽く振った途端、スエインの全身の毛が逆立ち、不快感を訴える。
「疲れましたの。開放させていただきますわ」
「……そうか」
 急速に干上がった喉から、無理矢理声を絞り出す。そうして、改めて『黒』と三人の従者を見回した。
 『黒』がやってくるのはもう少し先と思わせて、秘密裏にリーテ・ドールまでやってきたのだろう。あくまで目的の他を巻き込む気はないという姿勢は、なりふりを構わないセルリアの方針を見続けているスエインには、痛烈な批判のようにも感じられる。
「とりあえず、礼を言っておくべきかね」
「必要ない。――ここの様子からすると、アスカやあんたらの司令官はいないみたいだしな。余計な騒動を起こさずに済んだまでだ」
「ま、そんでも助かったよ」
「……アスカは、王都か?」
「答える気がないとしたら?」
「ここが、第二のナルーシェになるだけだ」


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