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「……?」
 いつもなら状況報告に出てくるはずの従者がいない。『黒』の幼少時から付き従い、唯一彼の名を呼ぶ従者は、その控えめで真面目な、居るのか居ないのか判らないほど物静かな性質とは間逆に、『黒』と仕える者たちの緩衝材として必要不可欠な人物である。『黒』へ抱く負の感情が直接『黒』へ伝わらないように、極力間に入って雑事をこなすのだ。
 幾ばくかの不安を覚え、スエインは普段立ち入ることのない庭園の奥へと足を進めた。柔らかな陽射しを受け、眩しく輝く水の流れる小川を渡り、広い庭のほぼ中央に位置する瀟洒な建物の扉を叩く。
「はーい?」
 少し高い、しかし少年の域を脱しつつある男の声が響く。従者の声ではない。
(――『黒』)
 反射的に後退り、本能で逃げ道を探し、しかしどこにも隠れる場所がないことを悟る。駆けて逃げてしまえば追っては来ないだろうが、それでは仕事に支障を来す。
 覚悟を決めてその場に止まること数秒、冷や汗が背筋を伝うのとほぼ同時に、細工の美しい扉は内側から開かれた。
「ん? ……誰?」
「……警備の者です。異常がないか、点検に参りました」
「あ、そうなの。ご苦労さん」
 微笑み、労う言葉にさえ緊張が走る。屈託のない笑顔には何の翳りもなく、愚かで、そしてなんて罪深い存在なのかとスエインは干涸らびた喉に無理矢理唾を飲み下した。
「何か変わったことはございませんか」
「ラゼルが怪我をしたくらいかな」
「え?」
「ちょっと、喧嘩したんだけど、急に気分が悪くなったらしくって、倒れて頭を打っちゃったんだ。意識はあるし大丈夫みたいだけど、とりあえず寝かせてある」
「医師でも呼びましょうか」
「ラゼルがいいって言ってるからね。今日は様子を見るよ」
「そうですか。他には何か?」
 首を傾げ、考え込むような仕草をし、結局『黒』は首を横に振った。幾種類もの複雑な感情の混ざった安堵を覚え、スエインは挨拶もそこそこに踵を返し、
「あ、ちょっと待って」
 呼び止める声に、ぎくりと背を震わせる。恐る恐る振り返った顔が強ばっていたのは、不可抗力の域に入るだろう。
 恐怖はさほど感じない。柔弱な体つきにもなんら危険を覚えることはない。だが、それでもどこか不気味だった。得体の知れない未知の生物を前にしているような違和感が全身の皮膚を刺激する。
「時間はある? ラゼルと食べようと思っていたお菓子が余ってるんだ。少し話していってよ」
「いえ、……仕事がありますので」
「僕が頼み事をしたって言えばいいよ。僕も退屈なんだよ。いくら昔体が弱かったからって、今はもう、元気なのにさ」
「……」
 驚くほどに線の細い少年は、白い腕を軽く上げて不満そうに口を尖らせる。無理もない。彼は本来、怪我や病気など無縁の体なのだ。彼の言う幼少時の体調不良は、『黒』の力を抑え込む術の強さ加減を意図して違えた事による負荷が原因であり、皆はそれをして、彼に虚弱体質であると信じ込ませていた。外の世界を知りたがらないようにと、好奇心の芽生え始めた時期に庭園周囲に張り巡らせた術を強め、外へ勝手に出かけようとした彼に「外の空気は体に悪い」と身に染みさせたこともあるという。
 だが、目の前の少年は成長という時間の魔法で、その軛を脱しようとしているようだ。
(追加で何か対策を取る必要があるかも知れないけど……)
 『黒』への方針を決めているのは、その一言で国の命運を左右するほどの上層部である。スエインがたかだか数分の接触で感じたことなど、とうに気付いているだろう。
 それよりもこの、実年齢よりも幼い思考回路の『黒』と長々と話すことによって、余計な知識を与えるのはまずい、とスエインは判断した。
「折角のお申し出ですが、巡回の仕事というのは、遅れを来しますと、後々に響いてきますので」
「……まぁ、そうだろうけど」
 もっともな言い訳に『黒』は渋々といった表情で首肯する。
 だが、スエインが胸をなで下ろしたのも束の間、
「じゃぁ、僕も一緒に行ってもいい? 帽子やショールで顔とか隠しておくし、邪魔しないからさ」
「え……」
 スエインは声を凍らせる。
「何を、しに行くんです……?」
「いろいろ」
「と、申されても」
「いろいろ、は、いろいろだよ。色々みたいものがあるし、……へへ、そうだな。僕と同じくらいの女の子とかとも、喋ってみたいなぁ。エルリーゼもちょっと、生意気になってきたし」
「それは……」
「ラゼルは、下の街は危ない人が多いって言うんだ。けど、君なら強そうだし、近くにいれば安全でしょ?」
 名案に浮かれているような、悪戯を思いついたときのような、そうしてどこか懇願を含んだ視線。本来なら一も二もなく頷いてしまいそうな、麻薬のような毒をもった仕草に、しかしスエインは思考を停止させた。8割の驚愕と2割の拒絶に、頭の中が白く染まる。
「ね、お願い。絶対に大人しくしてるからさ」
 念を押すように、繰り返す『黒』に、確かに悪意はないだろう。興味、好奇心、そういったものが先立っているだけで、連れて行ったところで本当に大人しくしているに違いない。だが、彼にどれだけ真摯な気持ちがあったとしても――その存在そのものが問題なのだ。
 こればかりは、と考え、スエインは何とか言いくるめる事はできないかと言葉を探す。
 だが、圧倒的に、時間そのものが足らなかった。
「もう、じゃぁ、僕、ひとりで街に行っちゃうよ」
 言い終わらぬうちに、『黒』の手がスエインの方へ伸びる。咄嗟に避け、身を庇おうとしてスエインは、石畳に足を取られ、たたらを踏んだ。その、僅かな隙に『黒』が迫る。
「借りるよ!」
「いけません!」
 細い指が、目立たぬように仕込まれていたはずの鍵の束に触れる。ほぼ反射的に白い手首を捻るように掴み、スエインは取られまいとそれを阻む。
 僅か一秒にも満たぬ牽制。先に手を離したのは、スエインの方だった。
「っ!」
 少年の力に驚いて、というのは言い訳だろう。確かに彼の力は、その華奢な外見からは想像もつかないものだったが、それでも、軍人として鍛えたスエインを凌駕するものではなかった。純粋な力比べではなく、競り負けた理由はただひとつ。脊髄を逆に駆け上るような恐怖、不快感、絶対的な拒絶。目の前にいるものは、近づいてはならないものだと訴える本能が、スエインに取らせた防衛行動だった。
(『黒』……)
 弾かれたように腕を引いたその隙に、少年がベルトから鍵の束を引きちぎる。金属の留め具は粉々に砕け、鍵は耳障りな音を立ててあっさりと細い手の中に収まった。
「殿下!」


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