[]  [目次]  [



「ふふ、いいじゃない。勝手に居なくなるわけじゃないんだし。そうだ、こうしない? 僕は今から街の方に降りるから、そこで、君に掴まえられたら戻る。どう?」
「なりません、王都とは言え、街には……」
「また、それ? ラゼルと同じ事を言うね。大丈夫だよ。僕、ちゃんと強いからさ。君だって、力で僕に負けたじゃないか」
「それは」
「大丈夫だって! 見て回るだけ。余計なこともするつもりはないし、兄上に迷惑をかけたりするつもりもないから」
「それでも、……殿下!」
 未だ震える腕を押さえ、それでも引き留めようと叫ぶスエインを背に、『黒』は庭園の道を駆け出した。美しく整えられた庭を足取りも軽く行く少年。だが――その背に暗色の陽炎が揺れているのは気のせいか。
 ぎよっとして仰け反るスエインに、王都へと続く門へ手をかけた『黒』が楽しげに手を振ってみせる。
「ほら、逃げちゃうよ! 掴まえたかったら早くおいで!」
「……!」
 言うが早いか、少年の姿はあっという間に扉の外に消えた。コンマ何秒の間を空けて現状を把握したスエインは、己の失態に全身を強く震わせる。
(なんてこった……!)
 力の入らない体に無理矢理活を入れ、警笛を鳴らす。鋭い音が穏やかな庭園を切り裂き、真っ青な空に響き渡った。
 十数年、一度として使われたことのなかったそれに、果たして皆反応するだろうか。そんなスエインの不安にも似た杞憂は、幸いにもすぐに打ち消された。
「どうした!?」
 第一門の外で控えていた別の部隊の兵が、庭の柵に縋り立つスエインを見て切羽詰まった声を上げる。
「何があった?」
「殿下が、」
 干涸らびた喉を押さえ、スエインは声を絞り出す。
「殿下が街に! 僕の不手際です。僕たちの使う裏口の鍵を取られました。処罰は後で受けますが、それよりも、早く探索の手配を!」
「まさか……、ラゼルはどうした!?」
「おそらく、殿下の、無意識の『黒』の力を受けて、倒れたのだと思います。殿下の言葉に嘘がなければ、屋敷の中で眠っているはずです」
「それなら、そっちは放っておいても大丈夫だな。招集をかけよう。――お前は、どうする?」
「行きます。殿下の身体能力は、外見よりも遙かに高いはずです。力は抑えられているはずですが、油断しないように伝えて下さい」
「判った」
 短い承諾の言葉を口に、男は庭園への正門へと踵を返す。それを見届けて、スエインは小道の奥に隠された迂回路の門へと足を向けた。正門とは異なり、こちらには物理的な門以外、人を阻む仕掛けはない。『黒』は一直線に街へ降りてしまうだろう。そう考えれば、干上がった喉とは対照的に冷たい汗がじんわりと掌に滲む。
 『黒』に触れた衝撃に未だ心拍は上がったままだが、じっとしている方が今の彼には苦痛だった。半ば混乱した状態のまま、整備されているとは言い難い悪路を一気に駆け下りる。足を取られ、転げ落ちる恐怖さえ横へ置くなら、急勾配の道は上るよりも遙かに短い時間で王宮へとたどり着くのだ。
「誰か、今、不審な者がこっちを通りませんでしたか!?」
「いや、誰も来ないが」
 首を傾げる警備兵にしてみれば、スエインの方がよほど不審な挙動だっただろう。だが、見咎めるような視線に煩っている場合ではない。礼もそこそこに、道から通じる別のルートを頭の中に展開し、手当たり次第に走り回る。
「スエイン!」
「! 隊長!」
 見知った顔に、緊張が僅かに緩む。
「すみません、僕の失態です」
「仕方がない。お前でなくても、同じ事だったはずだ」
「しかし、」
「それよりも、術師からの情報だ。『黒』の気配が街にある。西区画のあたりらしい」
「! もう、そんなところに……!?」
「庭園を出たせいで、『黒』の潜在能力が出てきているのかもしれんな。伝え聞いたところによると、かつて成人した『黒』は、何十メートルをも一気に跳躍したというからな」
 上司の言葉を口の中で繰り返し、スエインは額に汗を滲ませた。
「大丈夫だ。まだ、街に混乱は起こっていない。ちゃんと術が効いているんだ。だから、何ごとも起こらないうちに庭園へ戻せば、問題はない」
「……はい」
「街の方に行くぞ。移動している可能性もあるから、中央通りで二手に別れて探索だ」
 頷き、スエインは、既に走り始めている上司の背中を追った。一分一秒ごとに募る焦燥。目と耳に集中しなければという思いとは裏腹に、頭の中には『黒』にまつわる化け物じみた伝説がぐるぐると駆け巡っている。
 驚異的な身体能力、どんな武器をも跳ね返す強靱な肉体、そして、自然現象を操る力は年齢と共に倍増していく。限界がないわけではない。だがその終極、ひとたび狂えばそこには『黒』本人を含め何も残らない。それは誇張でもなんでもなく、実際にそうして滅んだ国と都市の遺跡が幾つも大陸に点在している。
 雲ひとつない明るい町中、騒がしいほど活気のある通りを走りながら、スエインは冷たい指を握りしめていた。
(どこに……)
 荒く、肩で息を吐く。心拍が異様なほどに速い。機械的に動かしている足は、気を抜けば崩れ落ちてしまいそうだった。それでも、まだ倒れるわけにはいかない。
 殆ど気力だけで走り探すこと数十分。『黒』が庭園を抜け出してから数時間。
「あっ……」
 ようやく、スエインはその姿を目に捉えた。
 標的たる少年は、呑気な様子で露店の品を珍しそうに眺めている。庭園を出たときと同じ姿のまま、日よけのショールを頭から被り、砂よけのように余った先で口元まで覆っている。砂漠を抜ける隊商の者によく見る恰好だが、どこか歪なのは、本の挿絵で見たものを真似ているだけだからだろう。
 通りは通常の風景と変わらない。そこに化け物がいるとは誰も気付いていないのだ。
(たいした術だ)
 見つけたという安堵から、自然と肩の力が抜けたのだろう。ため息、苦笑、そして慎重に気配を殺しながら、スエインは少年の方へと足を進めた。目を凝らして眺めていた顔がはっきりと、次いで表情までもが詳細に、後数十歩、後十数歩、もう少しで捉えることが出来る。
 だが、――運命はどこまでも残酷だった。
 ふと、狭い路地を通り抜けた風が、薄い被り布を扇ぐ。
「あ」
 少年の上げた声は、小さかった。目立たぬよう、出来るだけ顔を隠していたに過ぎない彼には、被り直すのが面倒だと思った程度だったのだろう。慌てるでもなく、ただ飛ばされぬよう、耳の後ろで押さえつける。その布の端から、艶やかな髪がさらりとこぼれ落ちた。
 その、色。――黒。
「帽子にすれば良かったかなぁ……」
 ぼやき、乱暴に被り直しながら顔を上げる。その瞬間に、世界は、一変していた。


[]  [目次]  [