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「……?」
 彼は、首を傾げた。先ほどまで、煩いほどに賑わっていた通りから、耳がおかしくなったのかと疑うほどに音が消えている。人々はそれぞれの形で息を詰め、彫像のように動きを止めていた。
 凍り付く空気。驚愕という言葉が冗談に聞こえるほどの、引き攣れた沈黙。ただひとり、状況を理解できぬまま狼狽える少年が、最も近くにいた露店の店主に目を向ける。
(しまっ……)
 店主の口が大きく開かれる。我に返ったスエインが、一歩踏み出したときには、――時、既に遅し。
「う、わぁぁぁぁぁーっ!!!」
 絶叫。そうしてそれが、恐慌の引き金となった。
「『黒』、『黒』が、ここにっ……!」
 悲鳴、そして我先にと逃げ出す人々。軒を連ねた店の商品は無惨にも踏み荒らされ、急拵えの屋根が人を巻き込んで崩れ落ちる。しかし狭い道はすぐにその先で詰まり、状況を知らぬ大通りの人々が押し倒されていく。人垣に見切りをつけ、家と家の間でしかない、汚泥にぬかるんだ薄暗い隙間に逃げていく姿もあった。
「何ごとだ!」
「助けて、助けて!」
「どけ、邪魔だ!」
「『黒』だ! 逃げろ!」
 無論、逃げられるだけの力を残した者ばかりではない。腰を抜かして座り込む者、押し倒されて立ち上がれなくなった者、『黒』を認識した途端に気死した者、様々な理由でその場に取り残された者が、点々と道端で震えている。
 おそらくはただひとり、自分の意志でその場に留まっていたスエインは、津波のような人の流れが去ったことを確認し、袋小路の陰からそっと滑り出た。
 嵐の中心はと目を向ければ、探すまでもなく黒髪が目に飛び込んだ。茫然と人が去っていく様を見つめていた『黒』は、訳も分からぬままに、近くに踞る老人に話しかけている。
「あの……どうしたんです?」
「ひっ……」
「おじいさん?」
 不思議そうに訊ねる『黒』を前に、老人は泡を吹いてその場に倒れ込む。無理もない、とスエインはため息を吐いた。
「殿下」
「え? ――あ」
 気づき、困惑の色を強く滲ませた視線をスエインに向ける。
「見つかっちゃった、じゃないね。どうしたの? 何かあったの?」
「殿下はお気になさらずに。危険ですので、戻りますよ」
「え、でも」
「こちらへ」
 とりあえずこの場を離れなくては、とスエインは強引に言葉を重ねた。だが、『黒』の反応は鈍い。倒れた老人や、建物の陰に隠れて震えている者に目を向け、気遣わしげな声を上げる。
「待って、あの人たちも、助けてあげなきゃ。怪我もしてるみたいだし」
「それは、すぐに手配します。殿下は、お戻りを」
「なんで? 治してあげたらいいじゃない。ちょっと待ってて」
「殿下!」
 引き留める声は、しかし行動を伴わず、――触れることを躊躇ったが故に、『黒』は駆けだしてしまった。スエインは、伸ばしかけて引っ込めた手を、茫然と眺めやる。
(……できない)
 言葉だけでは、引き留めることは出来ない。努力して話しかけ、自制して目を見つめ、だが、指一本さえも掴めない。手詰まり、そうして、事態は悪い方へと転げ落ちていく。
 動けないスエインを余所に、暗がりに踞る年配の女の前で、『黒』は足を止めた。気絶しているだけの者とは違い、女がすぐにそれと判る怪我を負っていたためだろう。おそらくは純粋な親切心で、『黒』は手を伸ばす。
「あの、大丈夫ですか」
 奥歯をかちかちと鳴らし、女は両手で肩を抱く。
「痛いですよね、治療します。足を出してもらえますか?」
「やっ……!」
「え?」
「ば、化け物っ!」
 少年は、何度か瞬いたようだった。
「近寄らないで、化け物!!!」
「……!」
 驚き、少年が伸ばした手を引き戻す。女はそのまま白目を剥き、後方の壁に向けて崩れ落ちた。老人と同じ、恐怖に歪んだ顔が空を仰ぐ。
「化け物……?」
 茫然と、少年が言葉をこぼす。だがそれが、思考回路へと流れる前に、
「『黒』!」
 鋭い声、そして幾つもの矢が彼の細い体へと飛来した。
 矢の雨が、四方八方から降り注ぐ。咄嗟にもとの建物の陰に隠れたスエインは、猛攻が僅かに収まるのを待ってから周囲の様子を窺った。視界は限られている。だが、彼に目に写ったものは、見間違えようもない制服だった。
(第一師団だ)
 いつの間にか、十数人の兵がスエインたちのいる場所を取り囲んでいる。まずいな、とスエインは小さく舌を打った。同じセルリア軍に所属しているとは言え、彼の所属する部署とは管轄違い、当然、王宮の奥に暮らす『黒』の存在など知っているはずもない。逃げた人々から『黒』の出現を聞き、命令を受けてやってきたのだろう。
 ある一定の距離から近づいては来ないのは、警戒しているというよりも、怖れが勝っているからに違いない。
「っ……」
 『黒』が呻く。だが、それだけだった。強靱に過ぎる体にかすり傷ひとつ負わすことの出来なかった矢が、よろめいた彼の足下で乾いた音を立てる。
「……なんで」
 無数に穴の空いた服を茫然と眺め、『黒』は悲痛な声で何度も呟いた。
「なんで、こんなことをするの……?」
 震える声。
「化け物って、なんなんだよ!」
 叫びに、スエインは胸を押さえた。心臓がもぎ取られそうなほどの衝撃が、鋭く彼を穿つ。
(……っ)
 何ごとかと、分析する余裕もない。同じように不可視の力に囚われた兵が弓を落とし、屋根の上から落ちる姿が視界の隅を掠めた。崩れる音、悲鳴、だが無事を呼びかける声もなく、辺りに呻き声が充満する。
 そうして、それを見た『黒』は更なる混乱を来したようだった。
「何……、何で、……何が起こってるんだよ!」
 倒れ込んだ商人、震える子供、苦痛に呻くセルリア兵。『黒』は手当たり次第に問いを投げかけていく。だがむろん、それに答える声はない。恐怖に引き攣った沈黙が、只一人、最も罪深く無知な子供を苛んでいく。
(……靄が)


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