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 しゃがみ込んだまま『黒』の姿を追っていたスエインは、いつの間にか少年の細い背に、暗色の靄がまとわりついていることに気が付いた。庭園の光の下で見たときには今ひとつはっきりとしなかったそれが、急速に、禍々しさを伴って形を成していく。そこから発せられるのは、得体の知れない恐怖と不安。とらえどころのない、それでいて確かな感情が心中に忌避と共に膨れあがる。
(もしかしてこれが、これが、『黒』の本領なのか?)
 だとすれば、あまりにも――恐ろしい。
 やがて、『黒』はその場を逃げ出した。知ることを欲しながら知らぬ事を乞うように、安息の地、都の中心たる王宮へと走り行く。
「まずい!」
「『黒』が王宮に向かっている、増援はまだか!」
 口々に叫び、第一師団の兵がその後を追う。遠い足音の方が素早かったのは、それだけ、『黒』の力の影響を受けていないからだろう。最も近くにいた弓兵は、意識を取り戻してからも立ち上がれないようだった。
 逃げろ、と本能が叫ぶ。逃げたい、と本音が誘惑する。実際に実行に移したとしても、誰も責めはしないだろう。
 だが、スエインは強く頭振った。何度も深呼吸を繰り返し、王宮へと足を向ける。人通りの絶えた道に、滅亡の予感を強く感じながら。

 *

 いつの間にか小さく響いていた足音に、ラゼルはびくりと体を震わせた。過去へと彷徨っていた目が、急速に冷たい通路へと引き戻される。
(――ああ)
 短く息を吐き、ラゼルは緩く頭振った。暗い廊下、等間隔に設えられた燭台の炎が、人の起こした風に揺れる。そうして出来た不安定な揺らめきを延長させるかのように、近づいてきた人物が軽く手燭を持ち上げた。
「グエン」
 第一師団団長の名を事も無げに呼び捨てる声が、遅れて周囲の大気を震わせる。熱の籠もらない口調に、躊躇いや遠慮の音はない。ぎこちなく振り返ったラゼルはそこに、長衣を羽織った年配の男の姿を認め、瞠目した。
 何故、と思い、小さく呟く。
「ルエロ・ベルガ……?」
 呼びかけとも言えぬ声に、意外そうな目を向けたのはグエンだった。はっきりと動揺の色を浮かべたラゼルと長衣の男を見比べ、眉根を寄せて顎を撫でる。
「知己か」
「さて、私は知らぬが」
 興味のなさそうな声に続き、反射的にラゼルも首を縦に振る。事実、ラゼルが知っているのは、彼の名前と経歴だけだった。情報量としては『失黒』として一時期注目を集めた自身とさほど違いはないだろう。
 落ち着け、と心の中で繰り返し、ラゼルは平静を装ってルエロに向き直る。
「失礼しました。……私は、これで」
 はじめの呼びかけからして、ルエロはラゼルなど眼中にない。グエンとの話が好ましくない方向に流れていたことも相まって、退散した方が良いとラゼルは保守的な思考に身を委ねた。
 だが、去りかけた彼の背を、平坦な声が引き留める。
「『失黒』」
 再び、ラゼルは肩を震わせた。彼自身の最も厭う呼称に、毒のようなものが心の底から染み出してくる。
「……何か?」
「来なさい」
「は?」
 間の抜けた返事に、しかし、拒絶されるとは考えもしない様子でルエロは踵を返す。
「ちょ、――待って下さい。エシュード様に用事があったのでは?」
「後で良い」
「後でって、そんなわけには」
「構わん。どうせ、明日の事だ。急用でもない」
 グエンが苦笑混じりに口を挟む。次いで彼は、動揺も顕わなラゼルにルエロ指し示し、行け、と無言で催促を重ねた。逆らう言葉が咄嗟に思いつかず、数秒の躊躇の後にラゼルはルエロの後を追った。
「お待ち下さい!」
 無駄と半ば諦めてかけた声は、以外にもしっかりと聞き届けられたようである。足を止め、無表情のままルエロはゆっくりと振り返った。
「なんだね?」
「その、どこに向かっているのですか」
「『失黒』の所だ」
「え?」
「お前に『失黒』を説得してもらおう」
「何の……説得ですか」
「無論、『黒』を討つための、だ」
 察しの悪いラゼルを睨むように見つめ、ルエロは短く鼻を鳴らした。
「経験者として助言できよう」
「!」
 ラゼルは体を強ばらせた。――冗談ではない。
「それは、無理です」
「セルリアと、跡継ぎの姫の為だ。王に仕えるお前に拒否権はない」
 弱音とも取れる拒絶をあっさりと弾き返し、ルエロは再び背を向けた。今度こそ、静止を呼びかけるラゼルの言葉にも反応しない。全てが自分の思うとおりになるとでも思っているのか、――否、『黒』に対するセルリア人の行動として、ごく平均的なことを強いている程度の認識なのだろう。実際、かつてセルリア王宮が『黒』に蹂躙されたことを知る者は、ラゼルを除けば例外なく『黒』に対し憎しみを抱いている。
 なんてこと、と考え、しかし逃げるわけにもいかずラゼルは焦燥感を背負ったままその後に付く。ルエロの目指した場所は遠く、王宮の外に出たのでは、危惧を抱くほどであった。
(だが、この場所は……)
 天井の切れ目から空を見上げ、星の位置を確かめる。そうしてラゼルは、喉を鳴らした。
「ルエロ殿、ここは……」
「『黒』の居た庭園の、下層部分にあたるところだ。かつてここで、『黒』へ対抗する術が編み出された」
 やはり、とラゼルは歪みそうになる顔を手で覆う。やがて辿り着いた重々しい扉の前で、ルエロは古い鍵を取りだした。
「ここが壊されなかったのは幸いだった」
「やはり、……あなたが、かつて『黒』を抑える為の術の開発に携わっていたというのは本当なのですね」
「術を作ったのは我が師だ」
 平坦だった声に、鋭さが忍び込む。
「あの時、『黒』に殺されたがね」
「それは、……聞きました」
「もっとも、あの時は生き残った者の方が少なかったのだがね。……さぁ、入りなさい」


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