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 言い、ルエロは踵を鳴らした。扉が小さく鳴った後、充分な程間を空けて、ゆっくりと足音が遠ざかっていく。だが、ラゼルには彼を呼び止めることができなかった。何と言えば良いのか、否、それ以前に、何を言えばいいのかが判らない。
 中途半端だ、と思った。結局ラゼルは、どっちつかずの存在なのだ。『黒』を完全に敵視することも、ルエロやグエンを説得することも出来ない。
 自嘲し、ラゼルは顔を歪めたまま薄暗い室内の奥へと足を運んだ。横たわる女が、軽く身じろぎをする。だが、ある種の予感が働いていたのだろう。それには驚くこともなく、ラゼルは女の横に立ち、憔悴したその顔を見下ろした。
「聞こえていたのか?」
 小さく、女は頷いた。
「すまない」
「いま、さら」
「……そうだな」
 先ほどの会話の内容を既に知らされていたからか、本当に――今更、彼女の身におきたことへの残酷さが加わったところで大差ないと思っているのか、女の表情からは読み取れなかった。慰める言葉を持たず、ただラゼルはため息を吐く。
「動けるのか?」
 緩く、首は横に振られた。
「ならば、背負っていこう」
「え?」
「私は君を説得する気などない。君が犠牲になることはない。――今、鎖を解くから」
 だが、女は緩く首を横に振った。
「ここに残っていても、君に未来はない。『失黒』が『黒』を殺すと言うことは、それは、」
「だ、め」
「何を……」
「かえれ、ない」
 囁くような声に、ラゼルは女の口元に耳を寄せる。
「わたし、の、いえ」
「……莫迦な」
 呻き、ラゼルは拳に力を込めた。
「ルエロの言った今後の保証とは、この世界における、という意味だ。それとも、『黒』を殺せば元の世界に還してやると、そんな約束でもしたのか?」
「して、ない。で、も、にげて、も」
 還れない。苦渋に満ちた表情に、女の迷いが滲む。
 確かに、ここでセルリア王宮を逃げ出しても、彼女の本当の居場所へ行けるわけではない。召喚はこの地で行われた。つまり、彼女にとってはここが、還ることへ一番近い場所なのだろう。
 だが、とラゼルは怒りをもって拳を振り下ろす。
「君は、聞いていないのか!?」
 女の横たわるベッドが軋み、小さく揺れる。
「どう足掻いても、君はもう、還れない」
「――え?」
「ここから、ここではない世界に繋がれた道は、一定期間しか保たない」
 最大限に見開かれた目が、驚愕の深さを物語る。女は、嘘、と呟いたようだった。実際には唇が小さく戦慄いただけだったが、ラゼルの耳には確かにそう聞こえていた。
 強く眉根を寄せ、ラゼルは苦い声を絞り出す。
「真実、誓って本当のことだ。時間が経てば、空間の位置はずれるものだと判っている。繋がっているのはせいぜいふた月程度。その間は同じ物を呼び出すことが出来ても、一定期間を過ぎれば、何をどう、同じ術を使っても時間以外の条件を揃えても、再びそこに繋がることはないとされているんだ」
「それ、は、だれ、でも、……」
「一般市民は知らないかもしれないが、少しでも術を専門に習ったり、国の中枢に関わったりする人は知っているはずだ。生物の召喚は禁じられているが、物資に関しては、非公開ながら行われている。確かなことだ」
 女は再び、否、今度こそ本当に、嘘だ、と声を上げた。否定してあげたいという気持ちを堪え、ラゼルは小さく首を横に振る。
 悲鳴の形に、女の口が開かれた。だが、それは音になることはなく、ただ、深い絶望を宿した形に凍り付く。
「だから、」
 言葉を重ねようとしたラゼルは、説得に力を込めようと女の顔を見つめ直し、――そして、短く息を詰めた。
「君、」
 女の眦から涙がこぼれ落ちる。見開かれた目が閉じられることも、こめかみに伝う雫が拭われることもなかった。
 教えてくれなかった、と女は呟く。誰に向けての言葉だろうか。術師ではないだろう。だがその内容よりも声の頼りなさに、ラゼルは強く眉根を寄せた。そうして呼びかけようとして、今更ながらに、彼女の名前すら聞いていなかったこと知る。
「君、しっかりしなさい!」
 女の口は、小刻みに震え続ける。
「大丈夫だ、私が逃がしてあげるから、だから、気を持つんだ!」
 ラゼルは強い焦燥を感じながら、女の肩に手を掛けた。豊かな黄金の髪とは対照的に、細く頼りない感触が掌に伝わる。温かい、だがそれだけで、彼女からは何の反応も返らなかった。
 衝撃、深い絶望と、喪失感。――或いは、最も信頼していた者からの裏切り。
(『黒』に、絶対に還れると約束されていたなら)
 気づき、ラゼルは強く拳に力を込めた。
(……私は、なんてことを)
 辛いだけのこの世界の旅路で、彼女が唯一希望としていたことを摘み、頼りにしていた者の嘘を突きつけた。女の、魂の抜けたような目を見つめ、ラゼルは強い後悔に額を打ち付ける。
(どうすれば……)
「――おや」
 背後から、突然の声。
 びくりと背を震わせ、ラゼルはゆっくりと振りかえる。いつの間にやってきたのか、長衣を無造作に羽織った老人が、入り口より右の壁に手を付いていた。地下に通じている穴の付近に現れたということは、そちらの方にはじめから居たのかも知れない。
 見知らぬ顔だ。ルエロを手伝っている術師だろう。ぎよっとして身を竦ませ、ラゼルは近づいてきたその人物に押しのけられるままによろめいた。
「おやおやおや……」
 不思議そうに、面白そうに、術師は興味深げな声を上げる。
「ラゼル・リオルドであったな?」
「……そうですが」
「お主、この女に何をした?」
「何も。ただ、」
 言い淀み、口を手で押さえるラゼルに、術師はしかし、嬉々とした顔を向けた。
「……なにか?」
「いや、秘密なら言わぬでよい。ただ、よくやってくれたと思ったまでだ」
「よく、やった?」


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