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「女の意識が沈んでおる。それが邪魔で、こちらの命令が上手く働かなかったのだが、……うむ、これで、命令通り動くようになったわい」
 その意味を悟り、ラゼルは顔を蒼くした。
「ま、それはそうとして。先ほどの話だがね」
「……なんですか」
「まだ、繋がっておるよ」
「え?」
「あと数日というところだがな、まだ女の世界は離れてはおらん」
「しかし、これまでのデータでは!」
「それは、あくまで呼び出すことを前提とした場合だな。同じものを呼び出すには、その世界が最も近くなくてはならん。だが、送る場合は、その世界が術の届く範囲内であればよい。つまり、最も近くはないが、手の届く距離にはまだあるということだな」
「……」
 ラゼルの沈黙に、術師は首を傾げたようだった。だがそれも、僅かの間。すぐに彼は、皮肉っぽい笑みをその口元に刻み込んだ。
「……なるほど」
 意味ありげにラゼルを見遣る。
「それが切っ掛けか。なるほど、なるほど……」
「……」
「まぁ、どうでもよいことか」
 硬い表情のラゼルから目を外し、術師は再び女に向き直った。
「なんにせよ、ようやってくれた。これで、『黒』へ安心してぶつけることができるわい……」
 術師の上擦った声が、狭い室内に響き渡る。それをどこか遠くに聞きながら、ラゼルは茫然と、壁に寄り添うようにして揺らめく炎を見つめていた。
(……私は)
 絶望を与えてしまった。女から、希望の灯を消し、結果として術に対しての抵抗力を失わせてしまった。
 意図してのことではない。ラゼルの思いはいつも、結果とは違った場所にある。だがそれが、それにより傷つけられた者に対し、何の言い訳になるだろう。
(アロラス様……)
 あの時も、そうだった。
 緩く風が通り抜ける。短い陰が不規則に形を変える様はまるで、思い出という名の過去の亡霊が現世に縋ろうと蠢いているかのようだった。

 *

 目覚め、遠くの騒ぎに気が付いたラゼルは、慌てて王宮へ続く階段を駆け下りた。間断なく響く爆撃の音と悲鳴、立ち上る噴煙に、焦燥が奥底から湧き起こる。いつもなら何度も呼び止めてくるはずの衛兵は、全て持ち場を離れているようだった。
「アロラス様! どこにいらっしゃるのですか……!」
 王族の住居を抜け、逃げ惑う文官女官の波に逆らい、ラゼルは主人を捜し求めた。騒ぎの中心にはアロラスが居る。それは、去っていく者達の口から『黒』という言葉が漏れた時点で明らかだった。定められた範囲の外で、アロラスが黒髪を晒してしまったに違いない。
「危険だ、戻れ!」
「武装兵以外は下がれ!」
 悲鳴にも似た忠告を聞き流し、ラゼルは王宮の広間に辿り着いた。積極的に引き戻されなかったのは、兵にそれだけの余裕がなかったからか、彼ら自身にも出来るだけ『黒』と距離を取っておきたいという気持ちが働いたからか、――或いは両方か。
 かなりの距離を走り抜けてきた為に、限界の声を上げる心臓を深呼吸をもって宥め、ラゼルは煙の立ちこめる広間を見渡した。そうして、愕然と口を開く。
「なんて……」
 あまりにも、無惨だった。瀟洒な壁面や窓には大きな亀裂が走り、天井を彩っていた精巧な照明器具は荒らされた床で硝子の破片となっている。原型と留めぬほどに砕かれた机や椅子をはじめとして、豪奢だった絨毯やカーテンまでもが黒く燻っていた。
 広間の更に先に移っていく破壊音に混じり、倒れた人々の呻き声が充満している。
「……助けてくれ……」
 両足を瓦礫の下に埋めた男が、誰もいない空間に向かって助けを乞う。崩れた壁から流れ伝う紅い河。突き出た人体の一部に戦慄が走る。
 こみ上げる吐き気を堪え、ラゼルは奥へと走り進んだ。だが、進めば進むほどに、動くことのない人間が山と増えていく。
 生きたまま引きちぎられたであろう、血の軌跡。まとめて倒れているのは、一直線にひと突きにされたためか。焦げてひとかたまりとなった人間と可燃物、その足下に転がるのは耐火障壁の装置だ。セルリアの一流の技術を持ってしてでも防ぎきれないほどの、圧倒的な攻撃を、誰が発したなどと考えるまでもなかった。
 やめろ、と理性ががなりたてる。近づくな、と本能が叫ぶ。移動し、展開し続ける戦場に近づくにつれ、ラゼルを苛む不快感はいや増していった。生理的な恐怖、忌避が走ることを課した両足を震わせる。
(術は、――力を抑え込む術は!)
 それだけが唯一の対抗手段だ。だが、それが上手く作動しているなら『黒』の気配は完全に断たれているはず。何らかの理由で術が途切れたか、或いはアロラスの力がそれを上回ってしまったのか。後者であれば、この国に未来はない。
 いくつもの角を曲がり、ラゼルは遂に、そこに辿り着いた。
「文官は下がってろ!」
 後列で巨大な投擲装置を操っていた兵が、僅かに振り向いて叫ぶ。だが首を横に振り、ラゼルはその場から最前線を見回した。
 『黒』、つまりアロラスは半ば崩壊した通路の奥に居る。かつて服だったものをかろうじて身に纏い、黒髪を振り乱した様は、まさに悪鬼のようだった。彼が動く度に、近づいた兵が吹き飛び、武器が粉々に砕け散る。
「化け物がっ……」
 呪詛を呟きながら、兵は円筒形の装置に鉄弾を込める。後ろから衝撃、つまり圧縮した空気を瞬時に送り込むと、鉄弾は直線の軌道をもって『黒』の方へと弾け飛ぶ。構造としては単純なものだが、命中すればひと一人程度は簡単に砕く威力を持つ。
 だが『黒』は、重量、そして速度を伴った攻撃を腕一本で叩き落とした。更なる力の加わった鉄弾が、軌道上に居た兵と壁を共に貫いて轟音を響かせる。
「ひっ」
 引き攣った声と悲鳴がこだまする。
「逃げ――」
 更なる爆撃。『黒』の振るった両腕が炎を生み、地面を、天井を、そして人を抉る。
 身を屈め、衝撃に耐えていたラゼルはふと、上から体を叩く礫がなくなったことに気づき、おそるおそる顔を上げた。
「あ……」
 ラゼルを庇うように、兵が身を挺している。呻く彼から滴り落ちてくる朱い雫に、ラゼルは茫然と顔を見上げた。
「あなたは」
 知っている顔だった。時々「箱庭」に巡回に来る青い髪の少年兵だ。理知的な容貌に反して口が悪く、しかし目端の効いた有能な新人だと噂されているのを聞いたことがある。
 どこか幼さの残る顔を歪め、少年兵はラゼルに目を向けた。
「……頼む」


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