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 苦しげに、短く懇願を口にする。ラゼルが逃げ遅れた文官などではなく『黒』、アロラスの従者であることを知っているからこその言葉なのだろう。
 だが、何をと問い返す前に、少年兵はがくりとその場に膝を突いた。いつの間にか、破壊行動が途絶えている。慌てて抱き支えたラゼルの腕の中、役目は果たしたとばかりに彼は気を失った。
(止めろ、ということか……?)
 噴煙立ちこめる中、少年兵を太い柱の影に隠したラゼルは、アロラスの姿を探した。否、見回すまでもなかっただろう。『黒』の気配は今や遮るものもなく、強烈な存在感を持って周囲を圧倒している。堪え、ラゼルは咳き込み、ふらふらと焦げた道を行く。
 破壊された建物の端、動く者のない一角で、ただひとり、立ちつくす人影。
「アロラス様……」
 呼びかけに、振り向く顔。驚愕と安堵と、様々な感情の入り乱れた目に、しかし、それ故にラゼルは、アロラスの意識がはっきりとそこに在ることを確認した。
(まだ、暴走はしていない……)
 これほどに破壊を繰り返しながら、アロラスは、狂ってなどいなかった。突然覚醒した力に引きずられ、制御も出来ぬままに逃げていたのだろう。だが、『黒』は『黒』。彼にかけられた術は残滓となり、畏怖の対象そのものと化している。
 努めて平静を装って近づいたラゼルはしかし、完全には動揺を抑え切れていなかった。強ばる体、引き攣る口元、合わせようとして彷徨う視線。それらの挙動に、アロラスが気付かぬわけはなかった。
 長年連れ添った従者、そんなラゼルまでが自分を避ける。あからさまに怯え、震えている。そんな事実を目の前に、アロラスはただ、壊れたような嘲笑を口元に刻み込んだ。
「ふ、はは、は……」
 堪えきれなかった乾いた嗤いが、奇妙に曲げられた唇から洩れいずる。
「そうか、そうか、……君も僕が怖いか……!」
「アロラス様!」
「ねぇ、ラゼル」
 泣きそうな、苦しそうな、それでいて嗤うしかない、歪んだ顔。
「僕は、何者だい!?」
 アロラスの指が、ラゼルの肩に食い込み強く揺さぶった。
「皆が化け物って言うんだ。『黒』ってなんだよ、僕が、何をしたって言うの!?」
「アロラス、様……」
「僕は何もしてない、ねぇ、なんで、なんで皆ひどいことを言うのさ!?」
 叫び、アロラスは地団駄を踏む。
 何もしていない、――わけがない。この惨状は、彼が作り上げた。何人、いや、何十人が亡くなったのか、数える気にもなれない。自分を拒絶した相手に対する報復だとすれば、これ以上タチの悪いものはないだろう。
 だが、ラゼルは同時に思う。アロラスを、そうなるようにし向けたのは自分たちだ。何も聞かせず、何も知らせず、優しく育てた。そうして、現実に直面した彼を放り、逃げた。あれほどに慈しんだ存在を、あっさりと見捨てようとしている。
「アロラス様……」
 恐怖を必死に呑み込みつつ、ラゼルはアロラスを真正面から見つめ返した。
「あなたは『黒』です」
「……っ!」
「本来なら、全てから忌み嫌われる存在でした」
 アロラスの腕を掴み、肩から引き離すように力を込める。
「ですが、陛下は、あなたのお父上は、あなたが平穏に暮らせるようにと願われました。だからこそ、あの屋敷があったのです」
「僕を……、僕を、隔離してたのか」
「違います。真実、皆、あなたを大事にしております。ただ、ただ、あなたは、」
 激しく拒絶を示すアロラスを見て、ラゼルは言葉を濁す。
「……ですから、お戻り下さい。全てから、僕がお守りします。ですから、ここは、どうか!」
「嘘だ!」
「信じて下さい!」
「嘘だ、僕は、化け物なんかじゃない!」
 耳を塞ぎ、悲鳴を上げる。
「兄様も父様も、そんなこと言わなかった! ラゼルは、嘘つきだ!」
「アロラス様!」
「消えろ!」
「――!?」
 突然の衝撃。真正面から強い風圧を受け、ラゼルは構えすら取る暇もなく吹き飛ばされた。何、と思う間もなく背中に強い痛みを覚える。
「つっ……」
 息を詰め、ラゼルは転がり、身を屈めた。激痛を堪え、薄く開けた目に、走り去る少年の姿が映り込む。
 いけない、と反射的にそう思った。今まで、闇雲に逃げていただけのアロラスが、確たる目的をもってしまった。
「だ、……め、です! 行っては、いけません!」
 目指すのは、国王のもとか、義兄とその家族の住まう場所か。考え、ラゼルは目眩のする額を強く手で叩いた。どこへ向かうにしても、アロラスは信じたくない現実に直面する。彼が受け入れられていたのは、あくまで『黒』としての力が封じられていたためだ。それが開放された今、彼は人類の敵でしかあり得ない。
 痛む体を引きずり、ラゼルは無理矢理足を動かした。そうして、数十分前には下ってきた道の反対側、階段を大きく迂回して王宮の奥を目指す。
「『黒』が、『黒』がっ……!」
「助けて!」
 奥に隠れていた女官たちが転がるように逃げ去る中、ラゼルは強くなっていく胸騒ぎに息を速めた。痛みとは別の感情が、手足を冷たく凍らせていく。
 行く先々に転がる、激情の犠牲になった者達の屍を乗り越え、それでもラゼルは走り抜いた。
 そして辿り着く、終焉の間――
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁーっ!!」
 ……耳をつんざく悲鳴。
「殿下っ、誰か、殿下がっ……!」
 逃げ惑う侍女たち、こじ開けられた扉。
 乾いた喉を鳴らし、ラゼルは逃げたい気持ちを抑えてその中へと足を踏み入れた。既に嗅ぎ慣れたはずの生臭い臭いが満ちる部屋に、朱い河が流れている。衛兵と女官、複数の屍体。壊された家具の数々に、惨劇の痕が染みついている。
 更に壊された扉の向こう、かつては寝室であった部屋から聞こえる嗚咽に、ラゼルは強く唇を噛み締めた。間に合っていて欲しいと願い、そうでないことを知りつつ、崩れ落ちた扉を越える。
「う、うぅ……」
 女の上に跨り、その首に手を掛ける、線の細い少年の影に、ラゼルは目を細めた。
 破壊された家具の間から見える白い大腿。振り乱された髪は生き物のように床を這い、引き裂かれた豪奢な衣装が床に淡い花びらを散らしている。どこか幻想的な裸体画、しかし豊かな双丘の中央は無惨にも陥没し、その上の美しい面を彩る恐怖の色は、女の凄惨な最期を物語っていた。
 女性への憧れが女の屍体をその姿に変えたのか。だが、その先を辱めることも出来ず、少年は涙の出ない顔で啼く。


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