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「義姉様、義姉様っ……」
 幼い子供のような呼びかけに目を逸らしたラゼルは、その声にかき消されそうな小さな呟きを耳にした。
「父様……」
(まさか)
 この部屋に女児の声がするとなると、その主は限られてくる。夫妻の幼い愛娘、王孫エルリーゼを思い浮かべ、ラゼルは慌てて、倒れた家具に遮られていた視界の奥を覗き込む。そうして、彼は息を呑んだ。
「……殿下」
 宙を睨む体無き顔。周囲に散乱する千切れた手足。原形を留めないそれは女の夫のもので、幼い子供の父親のもので、かつてはシドニエルと呼ばれ、聡明な国王の息子であった、――肉塊。鈍く光る血溜まりが毛足の短い絨毯に染みこんでいく。
「あ、……ああ」
 震えながら、少女が小さく泣く。開ききった大きな目は、一部始終を目撃していたのだろう。幼い心に植え付けられた絶対的な恐怖が、彼女の人生をどう変えてしまうのか、思えば、ラゼルの胸は強く痛みを訴えた。
「義兄様、義姉様……、返事して……」

 僕は、化け物なんかじゃないよね?

 響く心の声に、ラゼルは強く目を閉じた。握りしめた拳、爪が皮膚を裂いて血を流す。
「義兄様……!」
 暴走しての事ではない。混乱していたとしても、アロラスは正気の内にあった。故に尚更、――その罪は深い。
 義兄を殺し、その妻をも手に掛け、そして彼はどこへ行こうというのか。
(助けないと……)
 慕った者たちを殺した衝撃に沈んでいる間に、唯一生き残った王女を保護しなくてはならない。そうでなければ、あまりにも救われない。
「アロラス様」
 姪の存在に注目する前にと、ラゼルは引き下がった戸口から、彼の名を呼んだ。
「ここにいらっしゃいましたか。帰りましょう」
「ラゼル……」
「大丈夫です。さぁ」
 無理矢理にも笑い、ラゼルはアロラスに手を差し伸べる。茫然と見返すアロラスは、まるで、出会った日の幼子のようだった。
 純粋で優しい、あまりにも無垢な、――『黒』。破壊と殺戮に身を染めた者と理解しつつ、ラゼルは何故か、彼を呪う気にはなれなかった。恐れとは別に、心の底から憎むには、彼と過ごした年月が、あまりにも優しすぎたからなのかもしれない。
 全てを受け入れることが出来たなら、アロラスは自ら引き際を知るだろう。それに付き合うのも悪くはないと、ラゼルは彼を見つめながら目を細めた。
(だけど、今は)
 『黒』を恐れ、攻撃する者たちの前から隠さねばならない。全ては一度落ち着いてからだと、アロラスを血の臭いの濃い室内から外へ誘導する。ぎこちなく女の首から手を離し、ふらふらと、頼りない足取りでアロラスはラゼルの方へと歩み寄った。
 朝、いつも繰り返しているような軽い言い合いに別れて数時間。屈託のなかった少年は、別人かとも思えるほどに荒んだ色を目に宿し、ラゼルを仰ぎ見る。努力をもって見つめ返し、ラゼルは短く息を吐いた。
 ――まだ、間に合う。
 アロラスの目の中に残る理性の光を見て、ラゼルは僅かながら安堵を覚えた。まだ、最悪の事態には陥っていない。
「戻りましょう。とりあえず、入浴なさって下さい。それから……」
「ラゼル」
 抜け殻のような弱々しい声。縋るような視線に、ラゼルは演技ではなく微笑んだ。
「大丈夫ですよ……」
 言い、惨劇の道を隠すようにアロラスの肩を抱き、部屋を後にする。
 そうして帰り道を選ぶべく通路を見回し、――ぎよっとして身を竦ませた。
「……!」
 いつの間にそれだけの人が集まったのか。狭いとは言えない通路を埋め尽くす甲冑の群れ。
 目の前に展開していたのは、『黒』を捕獲するための大部隊だった。数々の飛び道具を構えた兵を前に、後列に術師たちが青い顔で術力増幅装置を握りしめている。彼らの頑ななまでの決意とそれに呼応した憎悪が向けられる先は、あまりにも明確だった。
 立ち止まるラゼル。突然のことに急停止した思考は、アロラスに不審を与えると認識しながらも、運動神経への刺激を途絶えさせる。進む様子のない両足に疑問を抱いたアロラスが面を上げ、その物憂げな顔が驚愕、そして憤怒に彩られるのは、もはや、必然だった。
「ラゼル……ッ」
 噴き上がる疑念の炎。
「騙したな!」
「誤解です!」
「そんな準備をしておいて、今更何を……!」
 怒り、嘆き、絶望、壮絶な負の感情がアロラスの周囲を取り巻いていく。
「卑怯者! お前だけはと、信じた僕が莫迦だった!」
「違います、これは――!」
「黙れ、裏切り者!」
 罵り、アロラスは憎しみを湛えた目でラゼルを睨みつけた。憎悪と拒絶の言葉が次々と彼の口から迸り、周囲を、そして何より彼自身を、二度と這い上がれない場所まで叩き落とす。ラゼルがいくら言葉を重ねようと、もはや、彼の耳には届きはしない。
「よくも、よくも……!」
 ラゼルから離れ、朱の道へ後退るアロラス。その先で、彼自身が屍へと変えた怨みの顔が出迎える。たじろぐも、前方には彼を敵とする武装集団。進退を窮めた彼に、逃げる手段はただひとつしか残されていなかった。
 破壊。
 元は人であったもので出来たぬかるみに足を踏み入れ、世界でただひとり、孤独を纏った『黒』は嗤う。
「アロラス様! いけません、まだ、まだ、僕がっ」
「危ない!」
「!」
 アロラスの周囲から噴出した黒い霧を、武装兵のひとりが鉈で薙ぐ。別の手に引かれ、すんでの所で救われたラゼルは茫然と、己を葬るはずだった黒い軌跡を見つめ遣った。
「呆けるな、逃げろ!」
「しかし!」
 冷たい鉄の感触に我に返ったラゼルは、震える腕を突いて身を起こす。
「何故、こんなところに、今になって!」
「用意が出来たからだ」
 しわがれた声に、ラゼルははっとして振りかえる。
「この先には国王がおわす。最終防衛ラインではないかね?」
「あなたは……、あなたの差し金か!」
「ちと、遅かったようだがな」
 皮肉っぽく歪められた顔は、対『黒』の総責任者とも言える術師のものだった。遅すぎる、そしてなんとも悪いタイミングの出現に、怨みを吐こうとラゼルは口を開く。
 だが、その寸前、目にしたその姿に彼は思わず息を呑んだ。


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