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 術師の好む長衣、特に好んでいたはずの白の透かし模様のそれは血と泥でまだらに染まり、半ばから引き裂かれて襤褸となっている。それだけでもここに至るまでの労苦を語るに充分な代物だったが、それ以上にラゼルの目を引いたのは、左右非対称、あまりにもアンバランスな人そのものだった。
「腕が」
「ああ」
 指摘に、術師の口の端が上に曲がる。
「『黒』の力を封じていた術が解けた、その反動だ」
 むしろあっさりと口にされた内容に、ラゼルの喉が引き攣って細い音を立てる。
「いつかは起こると承知の上だ。覚悟など、とうにしておるよ」
「けど、けど、それは」
「しかし、生き残った者は、始末を付けねばなるまい」
 その言葉にラゼルは、彼以外の術師が「反動」により命を落とした事を悟らざるを得なかった。
 何度、疑問に思ったか判らない。何故、『黒』を生かすのかと。
 国王への追従か。開発した術を誇示したかっただけなのか。それ以上の野心があったのか。或いは真に、『黒』を克服するために全てを捧げていたのか。
 どれでもあり、どれでもなかったのかも知れない。だが、彼らには彼らなりの決心と覚悟を抱いていたと思い知る。そしてラゼルは、その愚かな潔さに、返す言葉を持たなかった。
 唇を震わせるラゼルから目を離し、術師は低く、命令の言葉を口にする。
「やれ」
 応ずる声もなく、矢と火炎の斉射が『黒』を襲う。鋭い音が大気を裂き、くぐもった響きが煙と炎を大量に吐き出した。下層の者達はすでに避難させているのだろう。新たな悲鳴の代わりに、崩れ落ちた壁と床が轟音を撒き散らす。
 だが、『黒』はその程度では倒れない。灰色の煙の向こうに揺れる闇に、兵は緊張した面持ちで弓を構え直した。
「続けろ」
 攻撃の第二波。先のものよりも更に火力を増した爆撃が、城に巨大な穴を穿つ。途方もない年月の内、修復に修復を重ねて受け継がれてきた歴史在る優美な城が、たった一日、否、数時間で地に還ろうとしている。
 舞い上がる粉塵に咳き込んだラゼルは、目を細めてアロラスの姿を探した。無事を確認したいのか、倒れた姿を期待しているのか、彼自身にも判らない。
(僕は……)
 だが仮に、攻撃に屈し、捕縛されたアロラスに言葉をかける機会があるとして、それが何になるのだろう。術師のある種壮絶な姿に、半ば興奮状態だった感情が冷え、ラゼルの中に客観的な視点が蘇る。それにつれて、自分の行動の一貫性のなさに目も眩む思いがした。
 味方だと、自分だけは『黒』に敵意を持っていないと告げ、誤解を解き、そうして同じ口で死んでくれと頼むのか。結局、彼に求める事は、今一方的に攻撃を繰り返す術師や兵たちと変わりがないのだ。最後まで共に生きようと言えないのであれば、アロラスがラゼルに覚えた裏切りの感情は、結論として正しいものだったと言える。
 ラゼルの迷いだけを残し、術師たちの攻撃は続く。
 床は割れ、天井は落ち、瓦礫の山が積み重なっていく中で、しかし、依然として『黒』から受ける圧力は減じようともしない。分厚い壁を押しのけて噴き上がる黒炎に、前列の兵たちははっきりと顔色を失った。
「ひっ……」
 攻撃の間を縫うように『黒』から、何と判じがたい波動が襲う。前列、まともにその力を受けた人が紙のように吹き飛んでいった。術師たちの展開する防御壁がなければ、その一撃だけで全滅をも免れなかっただろう。
 むろん、犠牲は犠牲。真っ直ぐ後方の壁、或いは仲間に叩きつけられた者、崩れ落ちた床から下層へ転落していく者、一瞬の反撃の岐路は様々だったが、いずれにしても助かる見込みがないとう時点で救いようがないと言える。
「弓兵、下がれ。投擲の装置を」
 温度の籠もらない、この場にあって異常とも言える落ち着いた声音に、強ばる顔で頷く人々。恐怖という名の忙しなさで、半数以下に減った隙だらけの前列に代わり、無機質な装置が後方から運ばれた。
 耐えきれず、ラゼルは激しく頭振り、根本的な間違いを指摘する。
「無駄です、人にはどうしようもない」
 聞きとがめたか、眉を上げ、術師はラゼルを見下ろした。
「こんなことを続けていても、あの方は、いえ、『黒』は……」
「殺せぬな」
 言葉を継ぎ、術師は事も無げに結論を述べる。
「『黒』は『白』でなくば倒せぬ。『白』は今はグライセラか。いかにも、遠い」
「でしたら、何故!」
「我々に出来ることは何だ? ただひとつだ。力で『黒』を抑え込む。『白』を招くまでの間、持たせるしか方法はない」
「しかし、しかし、一度破れた術でしょう!? 更に強く継続させるならともかく、もう一度、より強い術をかけ直すなんて、そんなことが」
「出来る」
「え……」
「力を集めればいいだけの話だ」
「けど、あの術に携わっていた術師は、もう、あなたひとりだと!」
「術の発動の為に、弟子をひとりだけ残してある。後は儂が、ここで力を集めて起点を作ればよい。連れてきた術師たちには、増幅の役目を果たして貰う」
「……力?」
 茫然と繰り返したラゼルに、術師は口の端を曲げて嗤う。
「人だ」
「え……」
「『黒』の力が人5人分なら5人の、10人分なら10人の力そのもので対抗するしかない」
 単純に、それだけの人数で立ち向かうという意味ではないだろう。言葉を反芻し、しばし悩み、そうして回答に辿り着いたラゼルは、背筋に冷たい汗を滑らせた。
 人が持つ術行使の力そのものを、術に変換しようとするのか。
「まさか、『黒』を押さえていた術というのは……」
「術そのものの仕組みは、要するに術を使う源とも言える力を増幅させるだけのもの。『黒』の居を王都に構えなければならなかったのも、国内最大のオアシスであるこの地が他よりも格段に力に満ちていた為だ」
「今までも、人を犠牲に!?」
「一日でひとり、術師を寝込ませることになっていたといえば、確かに犠牲と言えるがね。まぁ、死刑囚などには、因果応報と言えるだろう」
 肯定に、ラゼルは言葉を無くす。唇をただ震わせる彼から目を外し、術師は戦況へと意識を向けた。予想通り、否、予定通りの敗色の濃さに、彼は顎を撫でてひとりごちる。
「……そろそろ、この場も持たんな」
 『黒』の反撃に次第に弱まっていく防御壁を越えて、幾つもの石礫が飛来する。
「一度、術をかける。下がっていなさい」
「……だっ、駄目です! 人の命を犠牲にするなんて、そんなこと、許されない!」
「許されずとも、しなければここで我らは全滅する」
「……っ!!」
「ここへ連れてきた兵たちは、皆、計画を知っている」
 低い声に事実を悟る。冷静な判断で、術師たちは天秤にかけたのだ。ここで『黒』を食い止めることを止め、助かる見込みのない者に手を尽くすか、彼らを犠牲に、ひとりでも多くの者を助けるのか。そして秤は、後者に傾いた。


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