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 反論の言葉を見失い、ラゼルは強く奥歯を噛み締める。無力だ、と思った。人の道にもとる行為を前にしながら、それを止める手段も言葉も持たない半端者。兵たちのように自らを律し立ち向かう力もなければ、術師たちのように己を殺してより確実な方法を選び取る力もない。
 震える拳。それを静かに、諫めるように重ねる手があった。
「あ……」
 見下ろした先に、腹部と足を紅く染めた兵の姿。知っている、とラゼルは混乱する記憶を探る。そうして行き当たった名に、ラゼルは動揺の色を浮かべた。
「エイデン隊長……」
 十数年前、幼かったラゼルの手を引いて箱庭へと連れてきた男だ。あの時は怖いほどに力強く、強引だった手が、今は優しく重ねられている。
 見上げ、ネーベル・エイデンは口の端に僅かな笑みを浮かべた。
「忘れるな」
「え?」
「この光景を忘れるな」
 言葉の強さに反し、口調はあくまでも静かだった。とても、今から術の犠牲になることを知っている者とは思えないほど落ち着いた目に、ラゼルの方が戸惑いに揺れる。
「これは、罪の代償だ。人の手に余る存在を自由にしようとした我々に下された罰だ」
「しかし」
「我々は、受け入れなくてはならない。だが、忘れるな。二度と、思い上がってはならないことを。そして、生き残ることが出来たなら、二度と、二度と、『黒』にこの地を踏ませるな。生まれた『黒』はすぐに消せ、それが、我々人類にできる、ただひとつの手段だということを、胸に刻みつけろ」
 教訓。だが、それを得るために、なんと大きな犠牲を払うのだろう。
 十数年、人々が模索した道の結論が、今のネーベルの言葉であるとは思いたくもない。だが真実の一端であることは確かだった。それが普遍のものであるのか、未だ力なき故の挫折なのか、限りある命のラゼルたちには、知る術もない。
 頷くことも出来ず、ただラゼルは、ネーベルの手を握りしめた。
 そうして事態は、終幕に向けて急速に歯車を回す。
「力点固定。作用範囲を収束」
 術師の言葉に従い、空間が軋む。不可視の、しかしそれと判る濃厚な圧力にラゼルは息を詰めた。倒れ伏す人々の口から、苦しげな呻きが漏れる。
(なんて、圧迫感……)
 何人分の術力なのだろう。想像もつかないほどの圧縮された力が、空間すらも歪ませる。今アロラスから発せられるものの比ではないとしても、それをして同等、相殺を目的とするのならば、『黒』の持つ潜在能力の底知れなさを思い身が竦む。
「対象固定。今しばし、『黒』の注意を逸らしてくれ」
「承知」
 短い重低音の応答は、後から駆けつけた偉丈夫の発したものだった。術の圧力と『黒』の破壊力を前に怖じ気づいていた兵を叱咤し、自らはアロラスへと立ち向かう。直接、剣を持って『黒』を攻撃したのは彼が唯一であった。乾いた血の跡と綻びの目立つ服は、彼が、その前にもアロラスへ剣を向けた事実を物語る。引いて尚挑む、その胆力、推して知るべしだろう。
 個人の武はけして事態を打開する手には成り得ない。だが、彼の勇気を盾に術師が編み上げた『黒』への術は、臨界点に達しようとしていた。
 ラゼルの手から、力の抜けた指先が離れて落ちる。犠牲という名の下に、助かるはずだった生命が失われていく過程を感じ続けるのは、ラゼルにとって苦痛以外の何ものでもなかった。ネーベルだけでなく、傷つき、外部からの干渉に抵抗力を失った者たちから、活動力の源と言える潜在的な力が抜け落ちていく。
 増していく術の威力は、希望と言えるのだろうか。考え、ラゼルは強く頭振った。少なくとも、称賛と願いを込めて認めるわけにはいかない。このような悲壮な決意を、二度と強いるような事態を作ってはならないのだ。
 それでも、生き残った多くの者が手を強く握り合わせ、成功と終わりを望む。
「術式完了。目標を相殺とする。行くぞ。よいか?」
「はっ!」
 応じる声に、術師は手を振り上げる。
「展開!」
 号令と共に、鼓膜を破るような轟音が響き渡る。『黒』から放出されていた圧力が逆巻き、突風が渦を巻く。床に四肢を付いて尚、不安定に揺れる体に嘔吐感がこみ上げる。垂直落下に匹敵する強烈な浮遊感に耐えきれず、ラゼルはその場で胃液を吐き出した。飛びそうになる意識を留めるために、その苦さでさえも甘んじて受け入れる。
 呻き、ラゼルは己の体をそうと認識するために体を丸め縮こまった。引力の中心、『黒』の身に起きる変化を気にする余裕はなく、一時的に、『黒』への恐怖をも忘れて術への抵抗に全霊を傾ける。術を行使する術師に対しての援護さえも、全く頭から抜け落ちていた。むろん、それを責める者などはいない。ラゼルがそうだとしても、誰もが同じだったのだ。
 長い、長い数秒。その終点。
「目標に到達。――術を持って、捕縛する!」
 宣言に続き、強く手が打ち鳴らされる。暗示を解くかの如き鋭い音に、ラゼルだけでなく、強烈な不快感を堪えていたほぼ全員がびくりと体を震わせた。
「あ……」
 弱い声をこぼし、ラゼルはゆっくりと周囲を見回した。いつの間にか、強烈な力の渦は消失している。
 嵐のただ中に居るように荒れ狂っていた場は鎮まり、暴風はそよ風へ、火炎は灯火へと姿を変えていた。崩れ去った天井の一角から、目映い陽光が差し込んでいる。生々しい屍体さえなければ、朽ちた王城の穏やかな一場面とも取れるだろう。
 静寂。誰もが息を詰め、結果を探る。
 果たして、『黒』は地に伏していた。踞り、何かに抗うように小刻みに震えている。そしてその体からは、取り巻いていた黒炎と、人々に怖れと不安を与える波動が消失していた。
 期待と歓喜が、生存者たちの顔に浮かび上がる。固唾を呑んで見守っていた偉丈夫も、口元を緩めたようだった。
「アロラス様……」
 呟き、ラゼルは軋む体を立ちげた。『黒』の状態を確認しようと、おそるおそる顔を上げて窺う兵に紛れ、遠巻きに『黒』を眺めやる。死んではいない。だが、失敗作の自動人形のような奇妙な動きに不安を覚えた。
「見てくればいい」
 術師だ。後ろからの憔悴した声にラゼルが頷き、誰もが、その一言を成功の合図と認識した。顔を見合わせ、示し合わせたように安堵の息を吐く。
 だが、人々の喜びが表情を過ぎ、声となって顕れる寸前、――突然、それは起こった。
「……?」
 小さな、爆発音。ぎこちなく、近くにいた兵が振り返る。同時に顔を、体を濡らしたものが人の体液であることを、更にはそれが術の要である術師のものであったことを、果たして彼は認識出来ていただろうか。
 再び、一瞬の静寂。人々の口が、悲鳴の形に開かれる。
 そうしてそれが、現実の音となってこだまする前に、破壊の終曲は、別の場所から鳴り響いた。
「あああぁぁぁぁぁぁーっ!」
 悲鳴にも似た咆吼が高い天井に反響した。それが『黒』の発したものだと気付く前に、競うように地面が低く唸り、細かく、強く、人と瓦礫を弾く。
 破壊しか知らぬ絶対者の産声。
 大気を引き裂くような目映い閃光に、ラゼルは反射的に固く目を閉じた。全身の毛が逆立つような不快感が走り抜ける。その場にへたりこみそうになるのは、魂へ直接問いかけるような恐れに因るものか。


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