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(つまり、知らされていない、と)
 知らせるだけの時間がなかったのか、知らせるつもりがなかったのかと自問し、テラは短く苦笑した。
(わざわざ、一度リーテ・ドールへ向かったのは、その為もあったか……)
 怪我をした兵を足止めにして去った一団が、真っ直ぐ王都へ向かわずにリーテ・ドールへ寄ったのは、『黒』に対する時間稼ぎだけではなかったのだろう。王都に待機していた面々に対して、戻ってこなかった兵がリーテ・ドールに居ると思わせる為の方便だ。それをして、司令官自身が戦略的撤退と言えば、まさか戦えない者を全て見殺しにしたとは思うまい。撤退命令をいいことに、『黒』から逃げ出した兵はその後の展開を知るよしもなく、殆ど敗戦だったという現実については、自らの後ろめたさ故に口を噤む。
 無論、『黒』は暴走することなく鎮められ、結果として術の餌食となることなく、テラのように生き残った者もいる。だが早晩、彼らにより軍の非道な方針が伝わるとしても、少なくとも『黒』と対峙するまでに届くことはないだろう。その時間差は極めて有効に利用されているようだった。
 不安と緊張、恐れと悲観の充満した王宮や兵舎の中に、それでも存在する決意と覚悟。『黒』と対峙するために最も必要な気力と団結をかき乱してまで事実を暴露するわけにもいかず、テラは緩くため息を吐いた。
「……失礼します」
 王宮の端、兵舎へと向かう途中に設けられた軍本部の扉を叩き、テラは仲介の兵に面会の希望を言付ける。階級と用件を告げる内に、兵が不審な表情を浮かべたのは致し方ない。本来、実動軍の頂点に立つ者に直訴出来るほどの階級ではなく、更には突然という非常識な訪ね方をしているのだ。
 待たされる、または拒絶されるということも覚悟の上であったが、意外にも、許可はその場で下されることとなった。
「入れ」
 兵が扉を閉め切らぬうちに、中から威圧的な低い声がしたのである。
「『黒』の動きを知っている者だ」
「しかし、斥候は……」
「しばらく下がっていろ」
 有無を言わせぬ命令に、兵は慌てて室内を飛び出した。入れ替わりに押し込まれたテラは、わずかに前のめりの姿勢のまま、滅多に顔を見ることもない総司令官に対峙する。
 予想通りと言うべきか。明らかに歓迎はされていない。敢えて人払いをした理由は判るとしても、そもそも面会を許可したこと自体がテラには理解できなかった。何かと言い訳を付けて拒絶し、ひとこと脅しでも加えて口を封じれば、グエンにとってはそれで済む話である。
 だが、相手の考えが読めないからと言って引き下がるわけにも行かず、テラは覚悟を決めて震える唇を無理矢理に開いた。
「申し上げます」
 余計とも言える口上は、テラ自身が声の調子を合わせるために必要だった。
「現在『黒』は街道を北上中。まもなく、――30分以内に到着致します」
「……徒歩の割に、随分と早いようだ」
「私が、獣を貸与しました」
 気を抜けば上擦る声を抑えながら、テラはなんとかその一言を口にした。スエインの命令などという気はない。それは、償いとしてテラもまた望んだことだったからだ。
 彼女の告白をどう受け取ったか、変わらず、考えの読めない表情で、グエンは彼女をじっと見つめた。
「お前の父は、己の職務を全うしたものだがな」
 敢えて今回の事件と直接は関係ないはずの父親の話を出してきたのは、スエインにより、過去のことがテラに伝わったということを推測してのことだろう。グエンの言葉の裏を突くように、テラは怒りを忍ばせた反論を返す。
「……父は、仲間と共に、国と民を守るために戦っただけです。私は、私の部下は、『黒』ではなく同じセルリア人に殺されました」
「……」
「私は、見届けに来ました」
「勝った方が正しいというわけか」
「歴史は、勝った方を正しくするだけです」
 言い切ったテラを、グエンは醒めた目で見つめた。喉を鳴らし、それでも視線を逸らすことなく、テラは彼の次の言葉を待った。
「言えば、よかろう」
「何を、でしょうか」
「『黒』の方が正しいのだと、お前の見た事実を触れ回れば、あの術の使用を止めたいというお前の願いは叶うやも知れんぞ?」
「それは出来ません」
 ほう、と僅かに興味深げな声が上がる。
「それでは兵に混乱が起き、『黒』に対抗する手段としての秩序が乱れます。また、真実を広めたからと言って『黒』の進行を止める材料にはなりません」
「『黒』に共感して、奴らをここへ誘導したお前がそれを言うのか」
「……『黒』の行動とセルリアの対応を比較した上で我が国の非を恥じました。それ故に、『黒』が正当な権利を行使する為に力を貸しはしましたが、根本のところで『黒』に与したわけではありません。我が国が、軍が、これ以上非常な措置をとることなく、誰も傷つくことなく、速やかに『黒』をグライセラへ引き上げさせるにはどうすればいいのか、考えての行動です」
 けして、セルリアを貶めたいわけではない。あくまで、穏便に事を済ませるには何が最善かを考えて決めた方針である。遅きに失した感はあるが、今からでも事のはじめの問題である『黒』の要請を呑みさえすれば、それ以上何を咎めることなく『黒』は帰っていくだろう。実際に彼の言葉を聞いたテラには、そう確信があった。
(言葉、か……)
 思い、テラはふと可笑しさを感じた。以前なら、そんなこと考えもしなかっただろう。
 『黒』の姿を見れば不幸に見舞われ、『黒』の声を聞けば病を得、『黒』に触れれば穢れが移る。全世界の大半が信じて疑わぬことにも、迷信というものは混じっているらしい。とうに穢毒にまみれて苦しまなくてはならないはずのスエインは全力でテラを送り出し、病に倒れているはずのテラは疲労以外の不調もなくこうして王都に辿り着いた。
 グエンも本当は知っているはずだ。恐れと忌避の念はあれど、『黒』はけして一方的な悪ではないということを。真に恐ろしいのは人の心だ。悪意は悪夢を現実にする。
 皆の恐れる『黒』と対峙したという事実は、不思議にテラの気持ちを落ち着かせた。ひとつ息を吐き、改めて司令官へ言葉を継ぐ。
「どうか、『黒』と話を。けして、話の判らぬ相手ではありません」
 言葉以上に目に強い力を込めて、テラはグエンに判断を迫る。無謀なことだと判ってはいたが、自らの進退を窮めるほどの決断でテラをここへ送り出した、スエインの心を無にしたくはなかった。
 無言の押し合いに負けたわけではないだろう。だが、グエンはふとテラから視線を逸らした。体の向きを変え、眩しさを増す窓の外へと目を向ける。そうして、顎を撫でながら独白のように呟いた。
「ラゼルと同じ事を言う者が出るとはな」
「……リオルド様と?」
 スエインの愚痴には時々名前の出る人物であり、セルリアの誇る『失黒』ではあるが、テラ自身は直接関わったことはない。故に、何故『黒』の天敵とも言える存在が、消極的とも言えることを促すのか、それがテラには不思議だった。
「リオルド様が王宮で待機なさっているのは、そういった発言があったからなのですか?」
「いや、真実、エルリーゼ姫のご要望だ」


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