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 では、何故。
 そう言いたげなテラの視線を横顔で受け止め、しかし、グエンはそれには答えずに、ただ己の剣柄を軽く叩く。 
「我々はセルリアの軍人だ。国と王守る」
「……」
「『黒』の処遇を決めるのは陛下だ。我々はそれを妨げぬよう守り、必要とあらばどんな手を使ってでも『黒』を敵として処理する。それ以上でもそれ以下でもない」
「つまり、積極的に術を使う気はなく、陛下と『黒』次第ということですか」
「むろん、姫が拒絶されるのであれば、我々はそれに準ずる」
「っ、それは……」
 狂気を宿したエルリーゼの目を思い出し、テラは顎を引いた。グエンの言い分はまず話し合いありきと謳っているが、最終的に話し合いが決裂することを大前提としているようにしか思えない。エルリーゼが介入すればそれは現実となるだろう。
 エルリーゼが何故ああも『黒』を拒むのか、以前は疑問だったことが、スエインの話を聞いた今ならよく判る。だが、次期国王という重任が、それを乗り越えられずに務まるとは思えない。軍人の前にセルリアのいち国民として、テラは強い不安と不満を感じた。現国王と共に厳しい状況を乗り越えてセルリアを導いてきた面々が、その程度のことも判らぬはずはない。或いはそれが、過去の事実を直接知っている者と知らぬ者の違いなのだろうか。
 折り合いを付けるべく、テラは言葉を探す。
「『黒』の要求は、姫に何かさせる、或いは『黒』と対話させるというものではなかったはずです。遠目にお姿を見せるというので妥協はできないのでしょうか」
 『黒』の力を隠す衣は失われたが、幸い、『白』の後継者たる結界術の使い手が居る。
「会うという、それだけでいいのなら、姫の寝ている間にちらと垣間見させるだけでも、」
「お前は、次期国王たる王族の者を騙すというのか」
「それは……」
 言い淀み、テラは強く眉根を寄せた。正論だ。隠し通せるならば有効な手とも言えるが、どこにでも、親切心或いは正義心をはき違えた密告者は存在する。
 だが、それでも、と、続く言葉を口に仕掛けたとき、突如、乱入してきた大声があった。
「斥候より報告です!」
「何ごとだ」
「『黒』が第一門を通過しました。恐ろしく早い獣に乗っております。ここに到着するのも時間の問題かと……」
「案ずるな。それについて対策は取ってある。迎撃準備には充分だ。予定通りの場所で『黒』を待つ」
「はっ」
「待機を除く全兵に配置につくように命令を出せ」
「承知いたしました」
 言うや、飛び退くようにその場を去っていく伝令を目で追い、テラは緊張に滲む掌を握りしめた。
 その背に、低い声が掛かる。
「テラ・マルロウ」
 びくり、とテラは肩を震わせる。
「お前は見届けると言った」
「……はい」
「近衛に混じり、枠の外から見ているといい」
「え……」
「陛下は、この『黒』に関する一件に限り、抗う者が居るなら好きにさせよと仰せだ。ただし、軍には軍の都合がある。故にお前には『黒』が暴走でもしない限り、傍観者として立つことしかできぬ場所を与える」
 話を蒸し返す隙はない。有無を言わせぬ声音に、テラはただ頷くことしかできなかった。

 *

 来たか、と国王は口の中で呟いた。
 『黒』一級市街地を抜けたとの報告に、表情を消したまま彼は立ち上がる。
「お祖父様!」
 その裾に縋るのは、唯一彼の血を引く孫娘。美しく聡明であったはずの彼女は、グライセラから書簡を受け取ったその日を境に狂乱の世界に閉じこもっている。
「お前が心配することは何もない」
「でも、でも、お祖父様、あんな恐ろしい化け物が……! お父様とお母様を殺した化け物が、本当に来ていると、」
「お前は奥で隠れていなさい」
 甲高い声を遮り、国王はエルリーゼの肩を優しく抱いた。
「何をしてでも、わしらはお前を守ろう。お前が父と母を亡くしたのは、わしらのせいであるからな」
「お祖父様、でも、ご無理なさらないで……」
「わかっておる」
 宥めるように頭を撫でるが、エルリーゼの震えは収まりそうにない。不安げに周りを見回し、そうして彼女は、引き攣った声で護衛の名を呼んだ。
「ああ、ラゼル、ラゼルはどこなの? わたくしを守りなさいと、あれほど言ったのに……!」
 思慕というよりは、すり込まれた絶対的な信頼によるものだろう。心を壊したエルリーゼの唯一の拠り所だが、まさかこの日まではさすがに護衛に付けるわけにはいかなかった。『黒』を斃した経験のある『失黒』を何故出さないのかという声は無視できないほどに高くなっている。それまでは、いつ遭遇するかも判らぬと退けていたが、確実に『黒』がやってくるとなった今では、その言い訳も通用しまい。
(おまけに、『黒』に立ち向かう気があるのかも判らぬ……)
 『失黒』としてのラゼルの資質は既に証明されている。だが、問題は心だ。『黒』に慣れすぎたあまり、それが国一つ滅ぼす人外の存在だということを失念しているきらいがある。
(だが、……新しい『失黒』が破れたときの布石にはしておかねばならん)
 思い、国王は固く眉間に皺を寄せた。その厳しい顔に、更なる不安を煽られたのだろう。
「お祖父様、わたくしは、わたくしは……」
 侍女に支えられながら、エルリーゼは忙しなく視線を彷徨わせた。
「行かないで、お祖父様、お姿が見えないと、わたくしは……!」
「案ずるな」
「でも、でも……!」
 真実祖父の為にか、或いは己のためにだけか、引き留めようとするエルリーゼを軽く押しやり、国王は侍医を呼んだ。心得たように近づき、彼は錯乱状態のエルリーゼに優しく話しかける。
「姫、お部屋へ戻りましょう」
「でも、お祖父様が」
「では、一番高い塔に参りませんか? あそこであれば、王宮の前庭から窓の中を識別することはできません。しかし、姫の方は、窓から前庭の様子が窺えますよ」
 『黒』に近づきたくはない、しかし、国王の様子を含め、経過が気になる。そういった内面の葛藤に妥協点を見出すには、まずまずの言葉だったのだろう。震えたまま、しかし、エルリーゼは頷いたようだった。
 僅かなりとも落ち着きを見せた彼女を侍医に託し、国王は外へと足を向ける。
 耳には、今し方のエルリーゼの悲鳴と、かつての幼かった彼女の泣き声が反響していた。

 *

 高台に吹く風に、国旗が音を立てて揺れる。真横に、その国の証を宣言するわけでもなく、萎れ身を畳むほどでもなく、中途半端にはためく姿は、今のこの国の現状を表しているようだった。
 『黒』を待ち受ける広場の端。目立たぬ場所で兵に紛れ、その実、兵という名の人の檻に囲まれて身動きの取れないラゼルは、今は姿も見えなくなった女を思い浮かべてため息をついた。逃げることも反発することもできない自分に、今更のように焦燥感を覚える。
 異世界から引きずり込まれた女が絶望に意志を鎮めて後、術師たちは嬉々として彼女の「改造」を進めた。むろんその頃には、ラゼルは隠し部屋から追い出されていたため詳細は判らない。ただ、扉の外、時折聞こえた獣のような絶叫が、全てを物語っていた。
 止める手段がなかった、と言えば嘘になるだろう。だが、実質女に引導を渡した形となったラゼルには、どうしても動くことが出来なかった。女への罪の意識は勿論、30年以上もの間隠し通してきたものの重さが、彼の肩にのしかかっている。
 正直なところ、ラゼルがこの場にいることに、幾ばくかの安堵を覚えている兵たちの期待が辛い。


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