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「……リオルド団長」
 呼びかけに、ラゼルはゆっくりと顔を上げる。
「『黒』は来るんでしょうか」
 不安と緊張の狭間で、限界に近い自制心が己を保つために発せられた声。
 来なければいいという期待と、来ないで欲しいという願いの混在した言葉は、おそらくは全ての兵たちの心境を表しているのだろう。だが、それに応える術を持たず、ラゼルは緩く首を横に振った。
「『黒』は来る」
「で、でも、『失黒』がふたりも居るんですよ?」
「『黒』は明らかに特異な存在だが、『失黒』は普通の人間となんら変わりのない身体能力しか持たない。不意を突くからこそなんとかなるのであって、真正面から『黒』と対峙すれば、ひとたまりもないだろう」
「でも、可能性はあるんでしょう?」
「……可能性、はな」
 何に対しての、とは具体的には問わず、ラゼルは確定を避けるように曖昧に言葉を返した。語尾に重なるように吹いた強風に煽られた旗が、そんな彼を鞭打つような音を立てる。舞い上がった細かい砂が、ぱらぱらと霧雨のように降り注ぐ。
「……滅茶苦茶だ」
 呻くように誰かが呟いた。
「『黒』のせいで、何もかも、駄目になった」
「そうだ、勝手に成長させて、他の国に迷惑を掛けるたぁ、どういうことだよ!」
「ナルーシェに住んでた従姉妹は、どうなったかも判らねぇし……」
「商人も来なくなって、物も足らない」
「俺の妹なんか、こないだ嫁いだ先から追い出されたんだぜ?」
 数ヶ月の間に堪った負の感情が、堰を切ってあふれ出したようだった。数という名の力が、個々の胸の内で澱となっていた鬱屈をかき混ぜて心を濁す。集団心理は、確固たる悪の存在を前に容易く加速していった。
 そしてその一端が、ラゼルへの訴えとなって噴出する。
「何故、我々が我慢しなくてはならないのですか!」
「そうです、門扉を閉ざして受け入れなければいいんです」
「……それは、無理だ。『黒』は三色の伴を連れている。大陸で定められた規則だ」
「しかし、ただの旅であるならともかく!」
「無茶なことを言ってきたのは『黒』たちです! 我々が逃げる必要はありません。あちらが謝罪すべきです」
「そうです、『黒』を王族と会わせろなど、滅茶苦茶です」
「……それでも、だ」
 『失黒』の弱腰とも取れる態度に不満の声が上がる。唸るように喉を鳴らし、しかしラゼルはけして頷きはしなかった。
 幾つもの問題や抜けられないしがらみに囚われているだけとは言え、ラゼルはセルリア軍で人をまとめる立場に立っている者だ。戦場で鼓舞として檄を飛ばすことこそあれ、感情のままに激していく事を推奨するわけにはいかない。
 今の内に鎮めるべきだ、とラゼルは口を開く。だが、それが声となって大気を震わせることはなかった。
「……『黒』」
 ぽつり、と誰かが呟いた。強ばった、だが、発せずにはいられない、悲鳴のような声。
「『黒』、だ」
 小刻みに震えながら上げられる指先、つられるようにその方向へと顔を向け、兵たちは一様に口を閉ざした。
 街へと通ずる広場の大門の下に、旅装の人影が揺れる。四人。遠目にも判る、否、視力に頼るまでもない、圧倒的な力の存在に、誰もが一歩、無意識のうちに後退した。招かざる客人を出迎える者はなく、薄く地表を這う砂煙が、彼らを先導する。
(あれが……)
 かつてセルリアに存在した者とは、比べものにならぬほどの力を秘めた『黒』。ラゼルをして、それはあまりにも恐ろしい。
 批難の叫びは、あっという間に沈下した。門に近い方から波のように、速やかに確実に、恐怖が兵の声を奪っていく。自分たちの訴えの実現が如何に困難であるかを、彼らは身をもって実感しただろう。
 数時間にも感じられる数秒。そこに集った全ての者が固唾を呑んで見守る中、ゆっくりと歩み来た『黒』は、広場の中央で静かに足を止めた。
 
 *

 三方を埋め尽くすセルリア兵を見回し、ラギは背筋に冷たいものを滑り落とした。グライセラの軍人として何度も戦場に立ったはずの彼でさえ、向けられる憎悪と敵愾心には息が詰まる。場所が果ての見えぬ平原ではなく、三方が階段の壁で囲まれたすり鉢状の広場であるということも、心理的な閉塞感に拍車をかけているのだろう。
(……それにしても、この人は)
 数歩先にいる黒髪の男を、ラギは目を細めて見つめた。
 低い位置から周り全てを睥睨するように見回した『黒』の顔に、全く動じた様子はない。これほどの強い拒絶を受けて尚、怯まぬその精神力には感嘆する。
 『白』の王より命令を受けて十数年、他のふたりと共に何度も彼の旅に従い、幾多の困難に敢然と立ち向かう姿を見ていたというのに、今更ながらに深い感慨を抱くのは、これが彼の言うとおり、最後の旅だからだろうか。思い、ラギは緩く首を横に振った。――今は、自身のことを考えている場合ではない。
(ここまで誘導して、セルリアは一体何を考えているのか……)
 おそらくはユアンやオルトも考えているだろう事を、ラギもまた頭の中で自問する。セルリア側が『黒』の要求を受け入れることはないだろう。これまでの頑なな対応を思えば、誰にでも判ることだ。
 この場所に、当然何らかの罠は仕掛けられているだろう。
 目線だけで周囲を見回し、ラギは術師の所在を探った。この際、一般兵の存在は脅威ではない。『黒』の居る場で、普段通りのまともな力を発揮できる者は少ないからだ。故に、注意すべきは第一師団長グエン・エシュードとその側近、術師、そして『失黒』に絞られる。
 膨れあがる一方の緊張とごく僅かの困惑の中、ジルギールがゆっくりと口を開いた。
「そこに御座すはセルリア国王とお見受けします」
 ざわり、と人の頭で出来た波が揺れる。
「我が主と交わしたる約定を果たして頂きたく、参上いたしました」
 静かな声は、不思議なほどに響き渡った。そこに含まれる力の微粒子に、既に何人もの兵が蒼褪めて震えている。無理もない。かつてはラギも、『黒』の発する全てのことに忌避の念を抱いていた。
 指揮官級の軍幹部が集まっている周辺から立ち上る殺気に、ラギは応戦の構えを取る。彼の前に居るジルギールがそれを制すのと、前方の階段の上の人垣が割れるのは殆ど同時だった。
「――のこのこと、よくも現れたものだ」
 低い声に、ラギは眉を顰めた。
「よほど、あの術がお気に召したと見える」
「……この期に及んで、まだ阻むつもりか」
「無論。だが今は、露払いに過ぎんがね」
 言い、グエン・エシュードは片手を上げた。ラギたちからは見えない、階段の先、その奥に強い緊張が走る。
「ラギ」


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