[]  [目次]  [



 小さく、ユアンが声を発す。心得たように、ラギは一歩前へ進み出た。
 術師が動く。それを認めたラギたちは、ジルギールの前に障壁を展開した。先日使われた術そのものであった場合、ジルギールの力をして行使される術は、そのまま抑え込まれる可能性が高い。ジルギールにそれが届くまでに少しでも威力を減じておく必要があった。
「お兄様、わたくしが……」
「下がってなさい」
 クローナの言葉を切り、ラギは硬い表情でグエン・エシュードを睨め付けた。確かにクローナの持つ結界術を使えば、どんな術や攻撃も無効にすることができる。だが、彼女は特殊な力を持つ一般人であって、結界を自由に使う『白』ではない。作用時間も使用回数も限られており、いつ起きてもおかしくない『黒』の暴走の為に力は出来るだけ温存しておく必要があった。
「やれ」
 先日と同じく、場にそぐわないほどの冷静な声が、静かに宣告を下す。
 『黒』に向かうであろう力を探り、ラギは防護壁へ力を収束した。
 だが、
「……!」
 己に向かい来る力の軌跡を、ラギは目を見開いて追う。
「なっ……!」
 意表を突かれた形となった三人は、完全に自分に対しては無防備だった。――否、予測し、防御行動に移っていたところで結果は同じだったかも知れない。
 技巧など一切無い、ねじ伏せることを目的とした圧倒的な力が三人を襲う。
「――っっ!」
 四方八方から体を圧縮させるような力がかかり、呼吸をすることにさえも苦痛が生じる。声にならぬ悲鳴を上げ、最も先に膝を突いたのはオルトだった。赤い髪の特性として防御面に弱いことを考えると、それでも健闘した方だろう。苦しげに呻くオルトの横で、ユアンもまた踞る。クローナはかろうじて結界の威力をして防いでいるようだったが、他人に裂く余剰はないようだった。
(対『黒』の……、なんて、力だ)
 忙しなく息を繰り返し、ラギは掌に爪を食い込ませた。全身を震わせ、容赦なく襲う力に抵抗する。
 実際には、先日の戦闘でジルギールひとりに向けられたものよりも効力は遙かに弱い。均等に負荷がかけられているのなら、『黒』を含めて五分の一の威力だと言えよう。それでも、相当の実力者でさえ、容易く沈み込ませる威力だ。ひとりぶんとしてまともに喰らえば、抵抗どころか即死に至るだろう。
 奥歯を噛み締め、ラギは己を支配しようとする力に抗った。萎えそうになる足で踏ん張り、一呼吸に力を込める。
「……ぁあっ!」
 咆吼に近い叫びと同時に、太く鋭い音が響き渡る。額から流れ落ちる汗をそのまま滴らせながら、ラギは地面に手を付いた。
 心臓がこれ以上はないというほどに早鐘を打つ。潰されそうなほどの圧力は消え失せていたが、体を支える両腕はまだ細かく震えていた。急に無理な力仕事をした後のように、全身に強い虚脱感が浸食している。周囲から発せられる低いざわめきが、遠い場所の音のようだった。
「……無茶をする」
 感心とも呆れともつかぬ声に、ラギは肩を揺らした。
「ラギ」
「……はい」
「悪いが、しばらくオルトとユアンを守ってやってほしい」
 無論、そのつもりである。ラギは小さく頷き、それを証明するように立ち上がった。その姿に、セルリア兵から再びどよめきが起こる。『黒』以外の者が術に打ち勝つとは思ってもみなかったのだろう。その点についてのみ、ラギは満足を覚えた。
「クローナ、お前はまだ大丈夫か?」
「愚問ですわ」
 強気、と言わざるを得ない声に、ラギは口の端を曲げた。そうしてかろうじて意識だけは飛ばさずにいるオルトとユアンに近づき、今度は自分たちのために防護壁を展開する。ないよりはまし、という程度の代物だったが、この際致し方ない。
 平然と立っているジルギールではあるが、それでも術の影響は受けている。先日のように相殺した様子はない。かかる負荷と無理矢理はね除けた後のリスクを比較し、前者の方がまだましであると判断したのだろう。ラギの目から見ても、明らかに動きが鈍い。これからひとりで立ち向かう必要のあるジルギールに、従者としてこれ以上の負担を掛けるわけにはいかなかった。
 ラギたちを戦闘不能に追い込んだ上で、セルリアは何を仕掛ける気なのか。予感を覚えつつも、先を見届けるためにラギは顔を上げる。
 『黒』が一歩進む毎に、セルリア兵で出来た壁は僅かに後退した。特に硬い表情をしているのは、先日の戦いより逃げ帰った第一師団の兵だろう。置き去りにされた仲間が見た地獄をまた、彼らも体験することになるのか。思い、ラギは喉を鳴らす。
 セルリア国王の元へ通ずる階段の手前。微妙な位置で足を止めたジルギールを、ようやく前に現れた国王は表情の読めぬ顔で見下ろした。
「……よく来たものだ」
 呟きに、ジルギールは皮肉気な笑みを浮かべた。
「なるほど、運命とはこういうことか」
「国王。運命など、ありません」
「笑止。預言を頼りにやってきたお前がそれを言うか」
「それは、道しるべに過ぎません。それを信じて進むか、諦めて去るかは、あくまで自分が決めたこと。ここへ辿りついたのは、自分の足で歩いた結果です」
 勁い意志を持って、ジルギールは国王を見上げた。
「運命とは、自分にとっては、都合のいい諦めに他なりません。受け入れがたい事実を容認するために、人の手には及ばない存在に委ねて納得させる、ただそれだけのことに過ぎません」
「口では、何とでも言える」
 冷笑をもってそれに報い、国王は片手を上げる。
「定められた命に抗うというのなら、その覚悟を見せよ」
 ざ、と吹き荒れた風に、国王の着衣がたわむ。
「『黒』の最大の敵たる『失黒』を退けてみよ。さすれば我々は、我々を守る運命が尽きたとして、お前の望みを聞き届けよう」
 宣告。同時に、鉄格子の滑る耳障りな音がこだました。低いざわめきが一気に消え失せ、張り詰める緊張感が一点に集中する。
 足音が石畳に響く。やがて現れる黄金の髪。
「アスカ……」
 奥歯をかみしめるような呟きに、ラギは居たたまれずに目を伏せる。
 砂塵の中、セルリア国王と入れ替わるように『失黒』が『黒』を見下ろした。

 *

 音がする。
 錆の浮いた蝶番、強い風が何度も開閉を繰り返す壊れた扉、軋む歯車、――どこまでも不愉快な音。頭の奥底に響くその音に苛立ちを覚えながら、飛鳥は煩わしげに髪を乱暴にかきあげた。


[]  [目次]  [