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 斜めに走る陽光が、建物の長い影を作る。砂塵に煙る地表を除けば見事なまでに鮮やかな視界とは逆に、飛鳥の思考には幾重ともつかぬ紗が揺れていた。何百もの視線が自分に集中していることを自覚しながら、緊張も不安も感じない。
 古代ローマの巨大な円形劇場、その観客席をもっとなだらかなものに換え、舞台となる場所を数倍にも広くしたような、どこか趣のある城前広場。頑丈な造りの、しかし大胆で豪奢な彫刻の施された巨大な門。背後にそびえ立つ青い城は、ため息の出そうなほどに優美な姿で人間を見下ろしている。
 垂涎を誘うような景観はしかし、飛鳥には何の感動も与えなかった。ただ、これ見よがしに整えられた舞台には辟易する。これでは見せ物だ、とただ舌を打つ。
 ――『黒』を討て。
 頭の中に、同じ言葉が繰り返される。
 ――化け物。
 ――あれは、存在してはならない。
 自分を見上げる黒髪の男に視線を合わせれば、その声は一段と強くなった。
 判っている、と飛鳥は思う。

 私ハ、アレヲ殺スタメニココニイル。

 あれは、殺さなければならない。
 他は、どうでもよかった。何故、とは思わない。それが飛鳥の全てだったからだ。他の一切は煩わしい、ただそれだけだった。
「『攻撃展開』。――行け」
 鼓膜を直接震わせるような声に、飛鳥は諾、と唇を動かした。攻勢パターンがいくつも脳裏に展開される。その中からひとつを選び、飛鳥は腰にはいていた剣を鞘からすらりと引き抜いた。考えるまでもなく、体が自然に構えをとる。重い、と感じた心は、次の瞬間には頭から完全に消え失せていた。
 風になびく黒髪を見据え、地面を蹴る。
「アスカ!」
 鋭い音が耳を通り過ぎる。激しく散る火花の向こう、的確に攻撃を防いだ男が、揺れる目で飛鳥を見返した。
 ――敵だ。
 飛鳥は鍔迫り合いに移る前に距離をとる。初撃を防がれた感触から、力での押しあいは不利だと判断した。速攻と奇襲、ヒット&アウェイの方が有利だろう。
「アスカ」
 再度、『黒』が音を立てる。
 何か言いたげな目も、飛鳥の心には響かない。何故そんな目を向けるのか、どうして何度も同じ音を口にするのか、疑問にさえ思わなかった。明らかに飛鳥よりも強いはずの相手に乱れが生じている、即ちこれは好機。戦闘を展開する上での材料になるかどうかだけが問題だ。
 『黒』の振るう剣は如何にも重かった。だが、剣筋を巧く流せば、剣にかけられた術が衝撃を逃がしてくれる。打ち合いの後に残る腕の痺れは、十分に許容範囲内だった。
「追加パターン『防御補正』及び『術行使』」
 命令が再び響く。頷き、飛鳥は髪に挿していた銀の櫛を抜き取った。『黒』から跳び離れる寸前に、それを鋭く投げつける。むろん、フェイクもない至近距離の動きを、『黒』が見逃すはずもない。
 だが、
「……っ!?」
 危なげなく櫛を避けたはずの『黒』の腕から、鮮血が飛び散った。大きく体勢を崩し、横へと跳び逃げる彼に飛鳥は追い打ちをかける。
「殿下!」
 青い髪の男が引き攣った声を上げた。かろうじて飛鳥の剣を弾き返した『黒』は、距離を取り剣を構え直す。多少息は乱れているが、衝撃からは完全に立ち直っている。
 飛鳥は短く舌を打った。本来ならば櫛にかけられていた術が、見えない真空の刃を持って『黒』の頭を真二つにするはずだったのだ。何の勘か、『黒』が左腕で頭を庇わなければそこで任務は終了していただろう。
「補正『術禁止』」
 奇襲が防がれた以上、しばらくは『黒』も警戒を強めるはずである。命令に従い、再び剣での攻撃を中心に飛鳥は『黒』を攻めた。
「アスカ、目を覚まして!」
 悲鳴にも似た女の声が響く。
「殺せ!」
 流れた血に誘発されたように、驚喜と狂喜の声がこだまする。 
 どちらもただ、飛鳥には煩わしい。
 『黒』を討つ。それ以上もそれ以下もなく、飛鳥はただ命令を遂行する。

 *

 飛鳥の猛攻に、ジルギールは防戦一方にならざるを得なかった。
 鋭い突きを躱し、細めに造られた剣を横に弾く。堪えきれずに手を泳がせた飛鳥はしかし、すぐに体勢を立て直し、後方にステップを踏んだ。
(強い)
 無論、ジルギールが明確な殺意をもって立ち向かえば、難なく成し遂げられる相手には違いない。だが、そうしたくないという思いとの相克に手も足も出ない状況だった。
 術による拘束を試み、ジルギールは短く舌を打つ。セルリア術師の仕掛けた対『黒』の術は、先日より威力を弱めた分だけ厄介だった。行動や思考が抑制されるわけではないが、丁度、窮屈な服を着ているときのようにジルギールの全てに絡みつく。力加減がひどくやりにくくなっている。おそらく、それなりに効力のある術を使えば、それが暴走の着火点となるだろう。それはあまりにも危険に過ぎる。
 普段より数倍重く鈍い体もまた、ジルギールに焦りを生んだ。いつもならそうそうには感じないはずの限界と疲労が、はっきりと判るほどに蓄積していく。
 自分の迷いが時間の浪費以外の何ものにも成り得ないことを、ジルギール自身が誰よりも痛感していた。

 *

 汗の滲む手を握りしめ、ラゼルは食い入るようにふたりの戦いを見つめていた。
 被害を最小限に抑えつつ、最も効果的に『黒』を攻める、そういう意味では国王の決断した方法は正しいのだろう。多くの兵たちは人垣であり証人の役目も果たす。『失黒』が『黒』を殺す瞬間の生き証人だ。
 もともとの能力差は比較にもならないが、感情を残し、更には身を縛る術を受けてしまった『黒』の方が分が悪い。彼はその心故に『失黒』を積極的に攻めることが出来ずにいる。もしか彼が攻勢に移ったとしても、その途端に術の力が強化されるだろうことは、予想ですらなかった。
 いずれ決着はつく。その時『失黒』は、『黒』の血で染まった剣を高々と掲げるのだろう。
(だが、……駄目なんだ、それは)
 役目を終え、女に感情が戻った瞬間、彼女は絶望の淵に叩き落とされる。ラゼルにはその心境が手に取るように予測できる。
 何故なら『失黒』は奇跡に近い存在ではなく、『黒』と心を交わした上で生じる後天的な才能だからだ。『黒』を認め、『黒』に認められた者が皮肉にも『黒』を傷つける。


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