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 思いを交わした相手をその手で殺し、やがて女は英雄と祭り上げられ、無くしたものの記憶を抱えながら、無為に生きていくのか。
(それでは、意味がない)
 ひとりの心の崩壊で、何万人もの心の平穏が得られるのなら安いものと、何も知らぬ者は言うだろう。だが、『黒』はそれで消滅するわけではない。すぐにまた生まれ、新たな悲劇を生んでいくのだ。『失黒』が殺そうと殺すまいと、変わらず『黒』が存在し続けるなら、『失黒』の払う犠牲と代償には何の意味があるというのか。
 『黒』の脅威と術の効力範囲から逃れるために後退し続ける兵を押しのけ、ラゼルは最前列へと進み出た。殆どの者が戦いに意識を向け、その為にラゼルの行動を咎める者がいなかったのは、幸いと言うべきだろう。
 かなり近い距離となった戦う『黒』の姿、唯一無二の黒髪に、恐怖よりも強い熱さがラゼルの胸を満たす。
(アロラス様……)
 あの時よりも、状況は悪い。何故ならかつての『黒』、アロラスの殺戮を止めるという大義名分がラゼルにはあった。穏やかな死に顔を単純に受け取るならば、アロラス自身それを望んでいたという慰めの妥協点を見出すことも出来た。
 だが、今は違う。心を圧して、すぐに討たねばならぬ状態でもない。
 止めなければ。
(だが、どうやって)
 自分よりも遙かに近しい者が、何度も呼びかけている。『黒』自身もそうだろう。それでも、女自身の意識は術により深く深く抑え込まれている。名を呼び、真摯に語りかけたところで、届きはしない。
 考え、ラゼルは僅かに眉根を寄せた。
(……名)
 名は、身を縛る。女自身がそう言っていた。そうして彼女には、ふたつめの名とそれの持つ力そのものが与えられている。
 ならば、とラゼルは声の限りに叫ぶ。
「止まれ、エルリーゼ! 目の前に居るのはお前の敵ではない!」

 *

 ラゼルの叫びを聞き、テラははっと目を見開いた。
(名前……)
 ラゼルが王女の名を呼んだ理由は分からない。だが、切実な思いのこもった声であったからには、相応の理由があるのだろう。
(そうか、名前か)
 術師たちの力は強い。だが飛鳥の核を成すのは、やはり飛鳥自身だ。この世界で与えられた呼び名ではなく、彼女本来の言葉なら、その奥底に眠る意識に届くのではないだろうか。
 飛鳥と言葉を交わした夜を思い出し、テラは彼女に教えられた名を口の中で反芻した。そうして、さりげなく周囲に目を走らせる。
 監視されている自分が勝手な行動を取れるのは、不審な行動を取ったラゼルと、戦うふたりに注意が向いている今しかないだろう。二度目はなく、加えて、不意に涌いた思いつきに、むろん確証もない。
 それでもと、テラは口を開いた。ラゼルの言葉が届いたのなら援護は間を空けるべきではないと、直感に思いを賭けて叫ぶ。
「やめるんだ、飛鳥!」

 *

 そして飛鳥はその声を耳にする。
「エルリーゼ!」
 他人の名。しかし、飛鳥の中に息づく力の源が、その音に反応した。
「飛鳥!」
 ――声。正確に、飛鳥を呼ぶ。その認識、あるいは自縛に、飛鳥の体は強張り、動きを止めた。頭の中を駆けめぐっていた命令を押しのけて、「渡辺飛鳥」の意識がなだれ込む。
「あ……」
 瞳が揺れ、ここではないどこかを彷徨う。
 自分は、何をしているのか。眼を通し、脳に伝わる映像は、現実には有り得ないものだった。
 乾いた土の広場。遠巻きに眺め来る数え切れないほどの人々。遠くに見える、青い城。
 異国。世界遺産の都市だろうか。
 数々の、行きたかった場所を思い浮かべ、それが過去形であることに違和感を覚える。同時に否、と否定の考えが頭の中に浮かぶ。
 ココハ、チキュウデハナイ。
 では、どこか。あり得ない、おとぎ話。都合のいい夢の世界。自分は、そこまで現実から逃げたかったのだろうか。
 そう、まるで、現実逃避乙女の妄想の最終地点。
 思い、飛鳥ははっと息を呑む。
 ここは。
「――アスカ」
 掠れた、しかし穏やかな声、その呼び方に飛鳥は眼を見開いた。
「アスカ」
 優しい音。大切なものに、強い願いをかけて呼ぶ、――大切な人。
 誰だろう。判らない。もどかしい。
 私はどこで、出会ったのか。
 見慣れた色合い、さして特徴のない容姿、それなのに、何故、こんなにも、心が、騒ぐのか。
「――」
 呼びかけようと、口を開く。声に出せば、判る。そう、確信が持てる。
 確か、彼の名は。

「攻撃パターン変更。『強襲』」

 ――響く。
「!!!」
 冷たくも、無慈悲な声。否、命令。
 強く、強く頭を殴られたような衝撃に、飛鳥の意識は、一瞬にして奥深くに沈み込んだ。


 何者でもない。
 アレハ、敵ダ。
 ただそれだけ。そして飛鳥は再び剣を振るう。

 *
 
「離せ!」
 少しばかり遠い場所で、女が周囲の兵によって拘束されている。ラゼルに続き、『失黒』の女の名を呼んだ兵だ。
 『黒』やその従者とは少し違ったイントネーション。それが、正しい呼び方だったのだろう。女は、確かにその声に反応した。


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