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 ――なのに、何故。
 あと一歩のところで突然表情の変えた女。その意味示すところ察し、ラゼルは反射的に駆けだした。

 *

 飛鳥の剣は容赦なくジルギールに迫る。術による拘束の為に、次第に重さを増していく体を無理矢理に動かし、ギリギリのところで剣をはね返す。
(まずい……)
 とうに限界など超えたであろう飛鳥の体は、しかし、動きを鈍らせる様子もなく常識外れの速さをもってジルギールを翻弄した。今はまだ怪我とも言えぬ細かい傷が致命傷に変わるのも、もはや時間の問題と見るべきだろう。
 切り裂かれた皮膚から血が滲む。その痛みよりも、迫り来る決断の時間にジルギールは身を震わせた。
「……アスカっ!」
 訴えるような声が、風に流れて消える。
 ジルギールは、強く奥歯を噛み締めた。もはや、上手く躱せない。防御できる確率も低い。
 切り抜ける方法はひとつ。飛鳥を攻撃するより他に方法はない。
 重くなった腕に力を込め、躊躇いと覚悟の狭間でジルギールは剣を鋭く突き上げた。
「くっ……!」
 くぐもった悲鳴を上げ、仰け反り躱す飛鳥。切り裂かれた大腿から飛び散った鮮血が宙を舞い、彼女の服を染める。
 だが、浅い。
 痛みなど感じてもいないように、傷ついた足で強く地を蹴り、飛鳥は再びジルギールを襲う。剣筋に迷いはなく、殺意が刃先を滑って軌跡を描く。命令在る限り、肉が裂け骨が砕けても、飛鳥が攻撃を止めることはないだろう。
 殺すか、殺されるかの二択。
 手加減の効く状況ではなく、本気に耐えられるほど対等でもない。間はなく、故に両極端に分かたれた未来。傷つけたくはない。彼女を傷つけるくらいなら、自分が傷つく方が良い。だが。

 だが、今ここで死ぬわけにはいかない。

 呼吸を整え、ジルギールは飛鳥を見つめた。
 そうして、多くの者が望む未来を切り捨てるべく、剣を振るう。
 それは飛鳥の剣を弾き、彼女の肉を裂き、命を断つ、――はず、だった。

「いけない!」

 近くからの叫びに、ジルギールは反射的に腕を引いた。だが、向かい来る切っ先にブレはなく。
「!」
 割り込んだ人影。幾つもの悲鳴。
 その瞬間、飛鳥の刃を受けたのは、――ジルギールとは別の人間の体だった。
「……っ!」
 声にならない呻きが、一瞬にして鎮まった場に響き渡る。誰もが、微動だにしない、時が止まったような沈黙。
 目を見開く飛鳥。
 命令と行動パターンにはなかった展開に混乱した彼女の腕だけが、壊れた玩具のようにぶるぶると震えていた。
「ぐ……」
 腹部を真っ赤に染めた男が、苦しげな息を吐く。剣を通し流れ来る血の雫に、飛鳥は今度こそ悲鳴をあげた。そうして、震える手から剣を投げようと、強ばった体に懸命に指令を下す。だが、固まってしまった腕は思うように動かず、ただ、血だまりを広げただけだった。
「動くな」
 鋭く低く、制止の声がかかる。
「指を一本一本離して。――大丈夫、大丈夫だから」
 宥めるように、ジルギールは優しく呼びかける。だがそれが気休めにしか過ぎないことは、彼自身にもよく分かっていた。間に割って入った男の腹は、見る間に膨れあがっていた。それに比例して血の色を無くしていく皮膚。裂けた服を染め上げる以上のものが腹腔内に流れ、貯留しているのだろう。
「ラゼル・リオルド?」
 男は、血の気の失せた顔で小さく頷いた。
「何故、俺なんかを?」
「……君は、無事か?」
 弱々しい指先が、彷徨うようにジルギールに伸ばされる。もう、振り向いて探す力もないのだろう。
 ジルギールはラゼルをその場に横たえ、上から手を握り返し、囁いた。
「あなたが、庇ってくれたから」
「君の『失黒』、は?」
「アスカも、無事です」
 言葉に、ラゼルは口の端を曲げた。唇は、既に色を無くしている。
 最期の炎に向け、ジルギールは小さく問うた。
「……何故、あなたが」
 『失黒』なのに。
 ラゼルは、応えなかった。ただ微笑み、真上にある顔を見つめ、――そうして、ジルギールの髪に震える指先で触れる。懐かしそうに、嬉しそうに、細められた目の中にあったものは、安堵と慈愛だった。
「アロ、ラ、……、……」
 声の消えゆく端から、力が抜けていく。小さく動いた唇は、それ以上の音を生み出すことはなかった。ただ、満足気な表情だけが、呼吸を止めた男の最期を飾る。
 息を呑むほどの静寂。その中で、カラン、と鈍い金属音が響き渡った。
「あ……」
 呼吸を止めた男の体から、溜まっていた血があふれ出す。
「あた、し……」
 彷徨い、揺れる目が、己の手と赤い河を行き来する。おそらくは初めて人を殺したという事実が、他の全てを凌駕しているのだろう。『黒』を討つ命令も、ジルギールの呼びかけも飛鳥には届かない。
 剣を取り上げ、ジルギールは彼女の顎に手を当てた。
「ごめん」
 宣言するように謝罪を口にして、軽い衝撃波を掌から発す。一度仰け反った飛鳥は、そのまま抵抗することもなく地面に倒れ込んだ。何が起こったのかも判らなかっただろう。
「……殿下」
 遠慮がちに問いかけるラギの声に、ジルギールは背後を一瞥した。もの言いたげな視線を認め、すぐに飛鳥に向き直る。
「大丈夫だ。意識はあるし、本当に軽い脳震盪で済むように力は調整したから」
 混乱を来した状態も相まって、飛鳥がすぐに動くことはないだろう。それでも認めぬ者の口を封じるべく、彼女が戦闘不可能であることを見せつけるために、ジルギールは細い首に手を掛けた。
「……セルリア国王」
 顔を上げ、表情の読めぬ老年の男を真っ直ぐに見つめる。


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