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 その困惑が、怒りと嘆きに反転するまでは僅かだった。どれもこれも、文面こそ違え、内容は全てひとつのことを禁じるものだったからだ。
「……どういう、ことだよ」
 誰とも判らぬ呻きが、低い波となって広場に波紋を描く。
「冗談だよな……?」
「グライセラの奴らの、手の込んだ仕掛けかなんかだろ?」
 文面を否定、或いはそれ自体がグライセラ側の仕業だという声も少なくはない。
 だが、
「名を騙ってんじゃないか?」
「違うわ、このサインは本人のだわ!」
「じゃぁ、脅されて?」
「俺、こいつと同期だったけど、戦って負けるならともかく、こういう姑息な手に従う奴じゃなかったぜ?」
「じゃぁ、間違いなくこれは、本人たちが書いたのか……?」
「死んだ奴らの名前も、……本当かよ」
 犠牲者の名に目を通した者が、次々に肩を落とす。そして決定的な声が、悲鳴となって上空に木霊した。

「術の犠牲になって死んだって、嘘だよな!?」

 『黒』を止める術の、副作用とも言うべき膨大な術力消費、それを補うための方法は、自国の兵にとってもあまりにも衝撃的だったのだろう。突然の告発に作り話を疑う者も多かったが、しかしそれは、認める者の根拠が叫ばれるにつれて急速に消失していった。否定するには、あまりに内容が具体的に過ぎたのである。
 先行した第一師団のうち、グエンに従い早々に逃げ帰った面々の顔が、誰よりも蒼い。怪我人を置いていったという呵責に加え、知ることのなかったその後の悲劇を知り、彼らには言葉もないようだった。
 事実だ。そして、命からがら生き残った者の激白は、あまりに重い。
「……団長」
 苦しげな声が、グエンに意見を求める。
「読んだ者たちが、術師を取り囲んでおります」
「そうか」
「術は……」
 使えぬか、とグエンは消えた言葉の先を口の中で呟いた。
 降り注ぐ、陽の欠片をこぼしたような白い紙片。眩しそうに、グエンは空を仰ぐ。
 これは、転移の応用だ。空中に告発文書の紙を転移させたのだろう。おいそれと出来る術ではないが、リーテ・ドールは学術都市。研究のための装置や資料は溢れている。傷病兵の救助の為に、術師もそれなりの数が残っていた。準備に手間と時間はかかるが、手順が複雑なだけで、少人数でも不可能な術ではない。
 やられた、と思い、緩く頭振る。
 不思議なことに、グエンの中に、スエインへの怒りはなかった。不穏分子を残してきた事への後悔もない。あるのはただ、敗けた、という単調な気持ちだけだった。この状況で、このタイミングで、スエインの策が成ったのは天の配剤か。
 同胞からの静かな攻撃に、セルリア軍に残っていた攻勢の熱は急速に冷めていったようだった。自軍の中に潜んでいた醜悪とも言える残虐性。それまでは善と信じて疑わなかったことへの猜疑に、怒りよりも困惑と混乱が満ちる。
 やがて、周囲のざわめきに耳を傾けていたグエンは、剣の柄に掛けていた手を横に垂らした。万策尽きたわけではない。個人の武を奮うことくらいはできる。実際、『黒』が徹底的に抗する道を選んだなら、その先に何も得るものはないと知りつつも、彼は仲間とともに立ち向かう道を選んだだろう。
 だが現実は、彼の思い描いていた結末のどれもに繋がらぬ方向に進んだ。そこに彼は、人の力ではないものを感じたのである。
 歴史が動くとき、人の力を越えた何かが作用する。今がおそらくは、その時なのだろうと。
 急速に戦意を潜めたグエンを見て、それぞれの得物を構えていた三色の従者は、僅かに戸惑ったようだった。あっさりと引き下がるとは思えなかったのだろう。
 しばし顔を見合わせ、やがて彼らもまた武器をそれぞれの位置に納めた。そうして一歩離れ、安堵したように息を吐く。それでも赤い髪の男だけは、警戒を緩めぬようにグエンを睨みつけていたが、そこに不穏な意志はない様子だった。
 そして、広場の中央。『黒』はこの結末に何を思うだろうかとグエンは彼に視線を向ける。
「……殿下?」
 不意に、更に後方で従者のひとりが訝しげな声を上げた。それにつられたわけでもあるまいが、グエンもまた、彼と同じものを見て首を傾ける。
 遂に勝利を手にしたはずの『黒』は、何故か茫然と、在らぬ方を見つめていた。

 *

「……」
 ひらひらと舞う紙片を追い、顔を上げた視線の先。
 ジルギールは、そこに信じられないものを見た。
「……まさか」
 呟きは小さく、容易く風に乗って消えていく。だが、彼の目に映ったものは、けして幻などではなかった。
 ――金の髪。
 この場に、飛鳥をおいて他に存在するとすれば、エルリーゼ王女でしかあり得ない。その特徴ある色が、優美な青い城の端、高い塔の窓の奥で、確かに風になびいていた。遠い。常人には金髪を識別することも不可能だっただろう。そも、目の前にちらつく白い紙に遮られ、気付くこともなかったに違いない。
 だが、『黒』の目にははっきりと判る。
 蒼褪めた顔、不安に揺れる瞳、戦慄く唇。飛鳥とは似ても似つかぬ王女は、全身で『黒』を拒絶していた。憐れみさえ覚えるほど、ひどく怯えている。おそらくは、事の結末が気になって、状況を窺ったところだったのだろう。まさか、恐れている者が今見ているとは思ってもいまい。
 何度も瞬き、見つめ直し、そうしてジルギールは嗤った。低い嗤いがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
(ああ、そうか……、そういうことか)
 自嘲。
(……それとも)
 ――お前は、帰りたかったのか?
 そう、居もしない者へ向かって、心の中へ問いかける。

 ひどく遠目での邂逅。そうしてジルギールは、己の求めた「セルリアの金」の意味を知る。

「――もう、いい」
 目を細め、ジルギールは頭を緩く横に振った。
「もういい。判った。もう充分だ」
「何が、です?」
 急ぎ、ジルギールの元へ戻ってきたオルトが、不安げな視線を向ける。
「殿下はもう、堂々と、王女と会うことを言えるんですよ? 何がもういいんです?」
「王女が見えた」
「え」
「向こうの端に居た。だから、もう、いいんだ。――判ったから」
 何が、と重ねて問いたげに見るオルトの横を過ぎ、ジルギールはセルリア国王を見上げて言う。
「セルリアの王。もう結構です」
 見下ろされる不審な目は、オルトと同じ事を問うていた。嗤い、ジルギールは今は見えなくなった王女の姿を探すように、人垣の後ろにそびえる城を見つめ遣る。
 スエインの告発に動揺していた兵たちも、『黒』と国王の遣り取りに気付いたようだった。急速に沈黙の落ちた広場に、ジルギールは声を響かせる。
「あなたが、我が国の申し出を受けざるを得なかった理由が、判りました」
 ざわめき。見守る全ての者が、顔を見合わせて何ごとかと呟いた。ジルギールの意味深い言葉に否定を返すこともなく、セルリア国王は皺深い顔に、ただ苦渋の表情を浮かべた。
「ここで言う気はありません。いずれ判ることです。知り得たことは、『白』を通して適切な時期に公表します」
「……」
「おそらく、我が国の占術師は王女とまみえることで何かが起こると期待したのでしょう。けれど現実は、占術師の視た未来を肯定するだけのものでしかなかった。知り得た事実は重要なことでしたが、陛下、我々にとっては共に、意味のないことだったのです」
「……では、引き上げるのかね?」
 疲れたように、国王は小さく呟いた。静まりかえってもいなければ、到底届くこともなかっただろう。そこに、強い落胆と憔悴を見て、ジルギールは短くため息を吐いた。グライセラからの要望が届いてからこちら、国王の取った方針はとても褒められたものではなかったが、彼一人が抱えていただろう真相を思えば、ジルギールにして同情を禁じ得ない。
 だが、彼には今度こそ確約を得ておかなければならないことがあった。
「アスカを戻してやって欲しい。そしてそれは私も見届けます。それが、条件です」
 これは、けして無茶な交換条件ではないだろう。むしろ、セルリア側が率先して行わなければならないことだ。
 国王は、ジルギールの真意を見計らうように彼をじっと見つめた。やがて、目を細め、厳かに誓約の言葉を口にする。

「――了承した」


*注*
13章内のテラとグエンの会話の中で、『黒』と話し合いを勧めたのがラゼルとテラだけだと言っているところがあります。
記憶力の良い方は、以前スエインもまたそうしたことを勧めているのでは? と思うかも知れません。文字面だけを見ると同じですが、内容が実は違います。
テラとラゼルが、王家が『黒』に対し約定を果たすことで、これまでにあった国際的な規約違反及び非道な振る舞いをなかったことにしてもらえ、と言っているのに対し、スエインは、飛鳥を人質に交渉して無理矢理帰ってもらえ、と脅迫することを勧めているのです。


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