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 短い沈黙、そして僅かな躊躇いの後、ジルギールは口を開く。
「アスカは、戦ったときのこと、覚えてる?」
「……うん。まぁ、ぼんやりとだけど」
「なんで、ラゼル・リオルドは、――セルリアの『失黒』は、俺を庇ったりなんか、したのかな」
 ぎくりと、飛鳥は体を震わせる。
「――、その、ごめん。アスカには辛い話だってのは判ってるんだけど」
「……いいよ」
 深く息を吸い込み、飛鳥は一度目を閉じた。
 操られているときの状況は、全体的に自分の真上から俯瞰的に眺めているという印象が拭えない。だが、ラゼルを刺したときのことだけは、はっきりと覚えている。おそらくはその瞬間に受けた精神的負荷が、押し込められているはずの飛鳥の意志にも影響を与えたのだろう。思い出せばすぐに罪の意識に苛まされる。
 薄く瞼を上げ、飛鳥は早鐘を打つ心臓を鎮めるように、強く服の裾を握りしめた。
「私こそ、ごめん。正直、甘いなぁとは思うんだけど、もう少しだけ、自分のせいじゃないって、思っていていいかな?」
「もう少しも何も、飛鳥は操られてたんだ。悪いのは、そうさせた術師たちだろ?」
 事実だ。そしてラゼル自身が自らの意志で動き、誰もが彼は満足して逝ったと口にする。だが飛鳥は、自分の持つ剣が人を刺した、その感触を、この先ずっと忘れることはないだろう。
 口を閉ざした飛鳥の心境を思いやってか、ジルギールは幾分気まずげな声で謝罪を口にする。
「本当にごめん。不躾だった。今の話、忘れて……」
「私も、考えてた」
「え?」
「あの人の行動の理由」
 ラゼル・リオルド。そして『失黒』。
 一度だけ、突然逃げるように勧めてきただけの、知人にも含まれないような男だ。彼にとっても飛鳥という存在はその程度のものだろう。であるにも関わらず、彼が何故命を投げ出してまでふたりの間に割り込んできたのか。
 ――飛鳥には、結論が出ている。ラゼルの言葉、行動、そして飛鳥自身が感じていた思いからくる推測ではあるが、おそらく、間違ってはいないだろう。そしてそれは、ジルギールにはけして辿り着くことの出来ないものだ。
 故に飛鳥は、静かに口を開く。
「『失黒』は、素質じゃないと思う」
「……?」
「『黒』に気を許して、『黒』が気を許した人が、なるんだと思う。だから、あの人は、ジルを庇ったんだと思う。『失黒』の栄誉は、本人には辛いだけだって知ってたから」
 "『失黒』が『黒』を殺すと言うことは、それは"
 ラゼルが言いかけ、飛鳥が遮った言葉の続きが、今の飛鳥にはよく分かる。三十数年間、『失黒』は作れるのだという事実を隠し通してきたことが、彼の思いの全てであるようだった。
「殺してしまったことは、辛いよ。だけどそれは、自分に向けての後悔だと思う。あの人に対する悔いじゃない。そればっかに囚われるのって、結局あの人のことを何も考えてないのと同じだよね」
 どうしようと、悩み悔い続けるだけで何もしないのは、どこへも進めない自慰に過ぎない。
「あの人の命に見合うものってなんだろうって考えた。そこから思いついたんだけどね。あの人が庇おうとしたのは、ジルでも渡辺飛鳥っていう私でもなくて、『黒』と『失黒』だったんじゃないかって。操られてたんだとしても、ジルを殺してしまったら、私は立ち直れなかったと思う。だから私は、あの人に対しては、ただ感謝してる。都合の良い解釈なだけかもしれないけど、――ようやくあの人は、開放されたんじゃないかなって思う」
「……そうだな」
 間を空けて、ジルギールは確かめるように頷いた。
「彼は、満足そうだった。俺も、感謝しなきゃな」
「うん」
「アスカにも」
「え?」
 思いも寄らぬ言葉に、飛鳥は何度か目を瞬かせた。
「ごめんな。――それで、ありがとう」
「何が?」
 飛鳥の頭の上に疑問符が浮かぶ。どちらかと言えば、感謝すべきなのは飛鳥の方だ。何の義理もない飛鳥を連れて旅し、当初の計画とは大幅に狂いはしたが、最後まで見捨てず、元の世界へ戻るための段取りもつけてくれた。飛鳥自身はと言えば、迷惑しかかけていなかったように思う。
「俺は、嬉しかったよ」
 静かな声に、飛鳥は目線だけを上に上げた。シャープなラインを描く顎の向こうに、この世でただひとつの黒い目が瞬いている。
 躊躇うような、思いを込めるような、どこか深い沈黙の後、ジルギールはゆっくりと口を開いた。
「俺は、幸せだと思う」
 ジルギールが、低く言葉をこぼす。
「『黒』に生まれたのに、俺は、本当に幸せだ。願っていたことを、全部叶えることが出来たから」
「……ジル?」
 目的は、期待はずれだったのではなかったか。
 そう問いたげな飛鳥の視線に、ジルギールは目を細めたようだった。
「一度で良い、誰かに横を歩いて欲しかった。真っ直ぐに目を見て話して欲しかった。他愛もないことを話してみたかった」
「……」
「誰かに頼って欲しくて、誰かに必要とされたくて、……誰かに、俺を見て笑いかけて欲しかった」
 揺れる目で、ジルギールは笑う。
「『白』の陛下に救われ、この呪いの連鎖を何とかしたいと思っていても、本当はどこかで虚しかった。本当はただ、認められたかっただけなのかも知れない。もし俺が『黒』でなかったら、ただの、人間だったら、そしたら普通に得られたかも知れない、そんなことが欲しかった」
「ジルは、人間だよ」
「誰も、面と向かってそんなこと言ってくれなかったから。だから俺は、何でもない事みたいに俺を見てくれたことが、なによりも嬉しかった」
「……うん」
「そんなこと、無理だと思ってた。だから、この旅で何も得ることが出来なかったら、帰ってすぐに、『白』に消滅させてくれるように頼もうと思ってた。だけど、もう少しだけ、頑張ってみる」
 『黒』が生まれるのではないかと、人々が怯えながら出産に臨まなくてもいいように。
「あんたに会うことが出来たから、俺はまだ生きたいと思えるようになったよ」
 言い終えるとほぼ同時に、暖かな手が、飛鳥の目を覆った。
 何、と身じろぎした飛鳥をその手で制し、ジルギールは囁くように声を紡ぎ出す。

「大好きだ、アスカ」

 落とされた声が、泣いた。泣けないジルギールの代わりに、彼から離れた言葉が涙を落とす。
 飛鳥はただ唇を震わせた。言う言葉も、返す言葉も持たなかった。
 ただ、ただ、その一言に込められたものが、――哀しい。その一言を言う為に、彼がどれだけの迷いを繰り返し、どれだけの覚悟で決意したのか、判るだけにあまりにも痛かった。
 何故ならそれは、別れの挨拶だったからだ。
 好きだと、そう言いながらもジルギールは飛鳥を引き留めはしない。残って欲しいとも懇願しない。飛鳥の存在が、この世界では不安定に過ぎるということもあるだろう。だが本当の理由は、おそらくそこにはない。
「誰か、じゃなくアスカを想うだけで、あと少しだけ、だけど俺は、今までよりずっと幸せに生きていける」
 この世界に飛鳥が残ったところで、ジルギールに残された時間は僅か。彼は、飛鳥にその短い時間を付き合わせることを望んではいなかった。そうして、それが判ってしまうことが、何より飛鳥には辛かった。
「ありがとう。楽しかった。だから、――さよなら」
 ベッドが小さく軋む。ジルギールが立ち上がったのだ。
 彼は、明日の返還の場には立ち会えないのだろう。多くの者が参加する術に、気を乱す『黒』が居るわけにはいかない。彼の自制心は、その強さ故に彼自身を苦しめる。
 遠ざかっていく足音。
 飛鳥はただ、こみ上げる嗚咽を堪えるだけで精一杯だった。


 ――そして、夜が明ける。


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