[]  [目次]  [



(15)

 目映い陽光が窓から室内を照らす。僅かに腫れた瞼を開け、飛鳥はゆっくりと身を起こした。
 清々しいまでに澄んだ空気。祝福を受けたような朝だというのに、どこか気分は晴れないでいる。
 どこかまだ怠い体を恐る恐る動かし、飛鳥はベッドの端から足を床に垂らして座った。目覚めた直後はこの時点で吐き気がしたものだが、今は多少目眩がする程度で、それもじっとしていればすぐに消え失せる。
 両足で立ち上がり、そこでようやく飛鳥は安堵の笑みを浮かべた。
 そこに扉を叩く音が響く。
「はい?」
「お目覚めのようですが、中に入ってもよろしゅうございますか?」
「あ、いえ、それはちょっと」
「では、お着替えを済まされましたら、声をおかけ下さい。ですが、あちらの準備の方は既に整っておりますので、お早めにお願いいたします」
「判りました」
 ベッドの柵に掛けられていた服を手に取り、飛鳥は短くため息を吐く。
 待ちに待った、目的としていた帰還日だ。ようやく、元の世界へ帰ることが出来る。勿論、嬉しくないはずはない。だがその一方で、手放しで喜ぶ気にはなれなかった。
 ジルギールが、彼の目的としていたことを叶えていれば、まだ楽だったのかも知れない。飛鳥をここまで連れてきてくれた彼は何も得られず、余計な苦労を背負わせてしまった飛鳥だけが目的を達しようとしている。無理矢理連れてこられた経緯を思えば、堂々としていてもよいのだろうが、そうするには、ジルギールの存在が飛鳥の中で大きくなりすぎていた。
 ただの別れではない。もう二度と会うこと声を聞くこともないのだと思えば、寂しさが胸を穿つ。
 だがそれでも、還らないという選択肢は飛鳥の中にはなかった。還れないならともかく、還れるのなら、そうするに越したことはない。飛鳥には飛鳥の生活があり、人生があり、敢えて口に出すことは少なかったが、元の世界にも家族や友人と呼べる人たちが居る。25年分の人生はやはり、元の世界にあるのだ。
 深呼吸を繰り返し、己を叱咤するように頬を叩く。部屋の隅おかれていた盥から水を掬い、勢いよく顔を洗えば気持ちは幾分改まった。
 余計なことを考えないようにと、手早く着替え、飛鳥は扉を開ける。
「遅くなって済みません」
「いえ。では、こちらへ……」
 待ちかまえていたメイドが次の扉を開け、その向こうにいた軍人らしき男が飛鳥に向かって敬礼した。国王が見舞いに訪れたことにより、賓客として認識されるようになったらしい。
 導かれて歩く城の中は、静まりかえっていた。召喚されたときには極秘事項として箝口令までが敷かれていたが、『黒』の襲撃によりある程度のラインまでには禁術の使用が認知されてしまっている。それでも、野次馬よろしく、帰還術に臨む飛鳥を見に来る者がいないのは、命令があったからと言うよりも、『黒』が出現する可能性を恐れてのことだろう。
 召喚された後、自由の利かない体で歩いた長い道を、今は、しっかりとした足取りで逆に進んでいる。まるで、何かの儀式のようだと飛鳥は苦笑した。
 だが、ようやく長い旅が終わるのだ。
 長い通路の果て、角を曲がり、飛鳥は瞠目する。
 あの日、この世界で初めて見た光景。
 黄金の水と湛えた浅い池、忌まわしくも美しいその場所が、忽然と姿を現した。

 *

 ルエロをはじめとする術師数名、術の全てを記録する文官とリーテ・ドールから呼ばれた研究員、そして彼らを警護する兵十数名が待ち受ける部屋に、女は簡素な出で立ちで現れた。若干顔色は悪いが、誰かに支えられているわけでもなく、姿勢を保てているなら問題はないのだろう。
 近衛の兵の先導で池の前に立った女は、努めて無表情であるようだった。無理もない。還ることが出来るからといって、これまでのセルリアの仕打ちがなくなるわけではないのだ。強いて言うならばそれが、彼女の最大の譲歩なのだろう。
 グエン配下の警備要員として術に立ち会うことになったスエインは、己の皮肉な境遇に苦笑していた。国の方針に真っ向から逆らった彼は、現在の所王宮預かりの謹慎中という身分である。その彼が一時的とは言え任を与えられたのはひとえに、禁術の使用をあまり表沙汰にしたくはないという国首脳部の意向によるものだった。『黒』に対抗する術の、悪い側面だけを広めてしまったスエインの存在を快く思わない術師たちにとっても、いささか釈然としない処置と言えるだろう。
 むろん、人材を厳選したのはセルリア側ばかりではない。件の女と旅をしていた『黒』の従者たちも彼女を見送りたかったようだが、それは『黒』自身によって止められたようである。ただでさえ、『黒』の滞在で緊張感を増している王宮において、お目付役がその側から離れることは余計な刺激を与えるだけだとして、『白』の後継者だけがこの場に参列していた。
「皆、定位置につけ」
 ルエロ・ベルガの一声に、術師たちがいそいそと持ち場へと向かう。
「以降、どなたも動かず、口も開かぬように」
 頷いた面々を見回してルエロは、囲いの一角にある他よりも少し高い台座の上に立つ。仰々しい前ふりがないのはありがたいが、ひとことくらいはあっても良いだろうにと、スエインは四隅の柱に凭れながら肩を竦めた。もっとも、突然の開始宣言に、驚くでもなく当然のように従う術師たちにとってはいつものことなのだろう。
 皆が固唾を呑んで見守る中、女は黄金色の池へと足を踏み入れた。縦横に広くはあるが、深さはさほどでもない。中央に立った女の膝の辺りで水面が揺れている。
 ルエロが手を上げると、池の周囲を取り囲んだ術師たちが、それぞれの術補助具を構えた。大理石で出来た囲いと底面には、予め術の媒介となる文様が描かれている。術を行使するのがルエロ、その綻びを補正し術力を補うのが術師、そこで生まれた力が文様を通じて女へと作用するのだろう。
「術式、開始――……」
 無感動なルエロの声。
 途端、黄金の水が視界を白く煙らせるように輝いた。
 術師以外の全員が、一斉に腕や手で目を庇う。どうにか薄目を開けて女の姿を探したスエインは、彼女が居たはずの方向に、幾つもの文字が光っては消えていくのに気が付いた。
 術師として感性を鍛えたわけでもないスエインにも判るほどの圧倒的な力が、見えない手となって人々を圧している。『黒』の放つような、身の毛もよだつ恐怖は感じないが、それでも妙な息苦しさを覚える。
 転移が、あの巨大な術力の中心に立つ必要のある術なのだとしたら、例え人への安全性が確認されようとも、絶対に使いたくはないな、とスエインは思った。
「第二段階到達」
 ルエロの宣言と共に、光に満ちていた水面が渦を巻く。一拍の間をおいて、中央で立ちつくしていた女が、後方にどっと倒れ込んだ。跳ね上がる水飛沫が一斉に彼女を襲う。
「分解開始」
「……!」
 スエインは悲鳴を堪えるために、咄嗟に口に手を当てた。女の帰還を見届けようと、じっと見つめていたのが間違いだったのかも知れない。
 兵と術師の協力の下、大量の紙を転移させたときにほぼ同じ光景をみていたというのに、対象が人と言うだけで、ここまで無惨なものになるのかと、己の想像力の甘さを呪う。


[]  [目次]  [