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 多くの者の目の前で、女は、少しずつ形を崩していった。皮膚が腐ったように剥がれ落ち、皮下脂肪と筋肉が溶け、骨が細かく砕けていく。おぞましいほどにそれがゆっくりなのは、術の要素に彼女の身体組成を組み込ませているからだ。水自体が発光しているため、水面下の様子が見えなかったのは、この際幸いだったと言うべきだろう。
 喉を鳴らす奇妙な音がそこかしこに響く。吐瀉にまで至らないのは、目さえ瞑ってしまえばそれを回避することが出来たからである。凄惨な光景とは裏腹に、何の臭いも音もない。
 だがスエインは、こみ上げる不快感を抑え、女が消えるまでを見届けた。ふと視線を動かせば、グライセラの代表も真剣な目で術式の様子を見つめている。これからはおそらく、目に見える変化は殆ど無いのだろうが、それでも、彼女は視線を外そうともしなかった。
 それがグライセラ代表としての義務だと思っているのか、彼女たちの間に芽生えかけた友情がそうさせているのかは、スエインには判らない。ただどちらにせよその感情の大半は、同情と憐憫を根に成長したものなのだろう。彼女の『黒』に対する関わり方を見ていれば、『黒』がけして本国で周囲と上手くやっているわけではないということは明らかだった。
(所詮、どこの国に居ようと、『黒』は『黒』でしかないわけか……)
 セルリアだけが、『黒』の被害者であるわけがない。そう思えば、今回のセルリアは明らかにやり過ぎだったのだと、今更ながらに思う。憎くて仕方のなかった存在が、自分の中でその座を降りようとしている状態は不思議と、――悪いことのようではないようだった。
 そう、スエインが今までのことを振りかえっている間にも、術は粛々と進行している。
「第三段階到達。現状維持。こちらは転送準備に移る」
 術師ではないスエインには、むろん詳しく知りようもなかったが、これからが大詰めといったところなのだろう。ルエロの声に、術師たちが揃って顔に緊張を走らせた。
 吊られたように集った面々も、心持ち顎を引く。
「空間固定――」
 ルエロの声に合わせ、床の文様が一際明るく光を弾く。
「座標確認」
 幾つもの筋が流れては消え、また走り、その度に生まれる蛍火のような小さな光の欠片は、次第にその場を埋め尽くしていった。やがて大きなひと塊となったそれが、天井に向けて舞い上がる。在る一定の場所で上昇をやめたそれは、文様から湧き出る光を更に吸収し、その体積を着実に拡大していった。時間と共に速度までを増し、広さでは充分すぎたはずの場を埋め尽くす。
 初めほどではないが、それでも強烈な光にスエインは目を細め、――ふと、視界の隅を横切ったものに眉根を寄せた。
(――なんだ?)
 これまでルエロの忠告に従っていた者達が、今更動くとは思えない。周囲を見回してみても、誰もが術の様子に目を奪われている、それに変化はなかった。
(見間違いか?)
 思うが、一度覚えた違和感は消えてくれそうにもない。その原始的とも言える勘が侮れないものであることを知っているスエインは、躊躇った後にその場から足を動かした。むろん、気配を出来る限り殺すことは忘れてはいない。
 柱の影に向かい、光の当たらぬ位置から場を眺めやる。そうして、不審なものはないかと探し、スエインは目を見開いた。
「……逃げろ!」
 何ごとかと立ちすくむ人を掻き分けながら、スエインは叫ぶ。
「逃げるんだ、ルエロ!!」
 だが、間に合わない。光に紛れるようにか、白い外套が割れ、細くまた白い腕が凶器を振り上げる。
 振り向くルエロ。滅多に動かぬ表情が、瞬時に驚きに彩られた。 
「…………!!」
「ルエロ!」
 声も発せぬまま、ルエロは壇上から滑り落ちる。
 息を呑む音、そして甲高い悲鳴が場を切り裂いた。深く集中していたはずの術師たちもが我に返り、その瞬間、宙に浮かんでいた光球が一気に弾け飛んだ。
「……っ!」
 一定の暗さを取り戻した室内に、悲鳴と共に満ちる不協和音。不規則な点滅を繰り返す文様。それの刻まれた大理石が揺れ、金色の水に細かい波紋を描いている。
 異常事態。誰かが鎮めろと叫ぶ。だが、ルエロ以外の術師たちにはどうすることもできないのか、逆に蒼褪めたまま壁際に後退してしまった。その様子に舌を打つスエインにも、当然、術の方はどうすることもできない。
「貴様、何者……!」
 後一歩のところで及ばなかった手を、スエインは侵入者へと向ける。
 逃げようとしたその服を捕らえ、首を押さえ、深々と顔を隠していたフードを取り払い、――そこで、スエインは目を見開いた。
「姫!」
 顕わになった金髪が揺れる。
「何故、エルリーゼ様が……」
「お放し!」
 凶器をもぎ取り、羽交い締めにしたスエインを退けようと、エルリーゼは髪を振り乱して叫ぶ。
「お前たちこそ、わたくしから何故『失黒』を取り上げるの!」
「姫、どうか、気を確かに!」
「わたくしは、狂ってなんかいないわ! 貴重な『失黒』を無くそうというお前たちの方がおかしいのよ!」
「これは、約束です、これ以上、違えるわけには参りません!」
「約束!? 『黒』などという化け物相手に、約束ですって!? ――わたくしからラゼルを奪っておいて! 『失黒』を返しなさい!」
 ヒステリックな声がこだまする。それを横に、騒ぎを聞きつけた医師団が、ルエロのもとへ駆けつけた。幸い、意識ははっきりしているようだ。出血も思ったより広がっている様子はない。術師の好んで着る長衣が、体型を上手く隠してくれたのだろう。
 だが、集中力を多分に要する術の続行には、十二分に障害となる。何より、一度途切れてしまった術を再開させるための術力が問題だ。
「姫を部屋へお連れしろ!」
 騒ぎを聞きつけて、別の警備箇所からやって来たグエンが怒鳴る。
「嫌よ! 離しなさい!」
「早くしろ!」
 グエンの鋭い声に、躊躇っていた兵が顔を引き締める。滅茶苦茶な暴れ方をしたところで、そうなるとエルリーゼに抵抗の余地はなかった。左右から腕を掴まれ、丁寧に、だが強引に室外へと運ばれる。
 悲鳴にも似た抗議が尾を引いて消えていく中、場は騒然と、無秩序な混乱の渦を広げていく。
 そしてそんな場面に、――『黒』が現れた。

 *

 金切り声を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく人々を横目に、ジルギールは飛鳥の転送された池へと近づいた。中途半端な状態で放置された装置が、不気味な唸りを上げている。
「なんで、なんで、止めてるんだよ!」
 状況が掴めずに手の出しようのない装置を見据え、ジルギールは歯噛みする。
「術は、どうなったんだ!? まさか、失敗したんじゃないだろうな!?」
「殿下!」


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