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 代表して返還術を見守っていたクローナが、蒼い顔のままジルギールの近くに駆け寄った。一定の距離は空いているが、グライセラ出立前に比べれば随分と歩み寄った態度である。
「失敗、したのか?」
「何故、ここに!」
「術力がこんなに不安定になってれば、誰にだって判る。それよりも、どうなんだ!?」
「失敗ではありません。でも、危険な状態ですわ」
「何が起きたんだ」
「術師が、刺されたのですわ」
 誰に、とは言わず、クローナは離れた位置で治療を受ける術師を指で指し示す。それを目で追い、ジルギールはさっと顔を強ばらせた。
「術は、どこまで進んだんだ!?」
「詳しくは……、ただ、アスカの姿は、もう」
「つまり、分解の段階までは進んでいたって事だな!?」
 気圧されたように、クローナは怯えた顔で頷いた。自分の怒気と焦りが彼女にそんな顔をさせていると判っていながら、それを改める余裕は、今のジルギールにはない。
 後退るクローナの横を通り過ぎ、彼は主となる術師が術を行使する場所へと駆け上がった。石の台座に刻印された文字が僅かに熱を持っている。だが、点滅を繰り返す文字の動きは、全くもって不規則だった。正常に働いているはずがないとは、素人目にも明らかだ。
 本国グライセラでも見たこともない装置に、ジルギールは強く拳を握りしめた。基本的にありとあらゆる能力が平均的な人を遙かに凌駕する彼にも、当然不可能は存在する。その最たる例が、力を極限まで振り絞って成す術の類だった。抑え、鎮める方の知識には長けていても、その逆は学ぶ事自体が危険だったからである。
「他の術師はいないのか!」
 焦燥に叫ぶが、返ってくる声はない。我先にと場を離れた人々に混じり、術師もまた何人か逃げ出してしまったようだ。逃げ遅れた、というよりも、立場上逃げられなかった人々は蒼褪めたまま首を横に振っている。
「誰か、やりかたを教えろ!」
「ひっ……」
 『黒』の発する怒気に当てられた術師が、座り込んだそのままの姿勢で白目を剥いた。涙と涎を垂らし、ガタガタと震える人々を見回して、ジルギールは苛立たしげに叫ぶ。
「『黒』が怖いか!? 当たり前だろう、そんなことは!」
「た、助け……」
「命乞いとはな。アスカの言葉に耳を貸さなかった奴らが、よく出来たものだ。恥知らずが!」
「許してくれ、来るな、……来るな!」
「お前たちは、その化け物に与えるためにアスカを無理矢理引きずり込んでおいて、その挙げ句、まともに還すことさえ出来ないのか!?」
「……耳に痛い話だ」
 苦しげな、しかしはっきりとした声に、ジルギールはその方を見遣る。
「予定外のことが起こったなど、言い訳にもならんな。……だが、ここで投げ出しては、それこそ名折れだ」
「おい、無茶すんな、……ルエロ!」
 スエイン・レガーの制止を振り切り、傷口を手で押さえながら、ルエロ・ベルガはゆっくりと身を起こした。
「あんた……」
「転移はできん。だが今なら、特殊媒体の水が今までの術式を全部記憶している。本来であれば、女が元の世界に着いたときに作動する術だ」
 内容よりも、自ら『黒』に話しかけてきたという事実にジルギールは瞠目した。他の術師が気死する中、怪我を負って尚『黒』を真正面から見つめることが出来るとは、相当の胆力と言える。
 グエン・エシュードと共に非情な対応を続けていた男だが、――彼には彼なりの信念があるのだろう。
「ただし、術力はまだ込められていない。……お前が、」
 言いかけ、呻いたルエロをスエインが支えて横たえた。顔色が悪い。致命傷ではないとは言え、血を失いすぎたのだろう。敢えて完全な治癒術を施していないのは、体力の消耗から気を失うことを懸念してか。
 荒い息を繰り返すルエロを見つめ、ジルギールは台座に手を置いた。
「どう、すればいい?」
「逆読みだ……」
 ルエロの指先が、ジルギールの前の台を指し示す。
「そこに刻まれている術略式を、逆に読め。……一字一句、違えては、ならん」
「それで、いいのか?」
 応えはなかった。視線を上げ、ルエロを支えるスエインに目を移す。一度だけ体を震わせ、だが、踏みとどまったようにスエインは小さく頷いた。
 それを見て、ジルギールは台座へと向き直る。
(……力か)
 それなら、有り余っている。
 その皮肉に頬を歪め、ジルギールは不規則に光る文字を追った。指先で既に行使された術をなぞり、最後の行を探し当てる。
(待っていろ、アスカ。必ず、助けてやる)
 そう誓いを込め、ジルギールは声高く、術を開始した。

 *

「始まった……」
 呟き、スエインは血の気を失ったルエロの顔を覗き込む。
「成功する可能性ってのは、……」
「問題ないだろう」
 言葉を濁したスエインの後を継ぎ、ちらりと片目を開けたルエロが『黒』の方へと視線を向ける。
「根本的に人とは容量が違う。力は足りている。転移に至らん段階なら、まず、言い間違えることはないだろう」
「それなら……」
「問題は、そこではない」
 低く、しかし鋭い声に、スエインはぎよっとして体を強ばらせた。それが、支えた腕を通してルエロにも伝わったのだろう。短い嘆息の後、ルエロは苦い表情で強く眉根を寄せた。
「今、『黒』は力を制限する術を甘んじて受けている。その状態で術力を使うことは、通常の何倍もの集中力を要する」
「……ああ」
「精神的な負担が強い」
「判ってる」
「ならば、何故止めなかった」
 ルエロがそうしなかったのは、術師としてのプライドからだろう。難易度の高い術を成功させ、女を元の世界に戻す、それを達成するための執着とも言える。
「俺は……」
 言い淀み、スエインは強く掌を握りしめる。
 そんな彼を見て、ルエロはため息を吐いたようだった。
「暴走するぞ。――確率は、高い」
「判ってる!」
 分解されたまま術が完全に停止すれば、女は死んだと同義になる。そうなればどのみち、『黒』は絶望のままに自制力を無くすだろう。「セルリアの金」から彼自身が得られるものはなく、その為に呼び出された女の命まで奪ってしまったとなれば、もはや彼は、この世界に未練をもたなくなるに違いない。


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