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 何もしなくとも、それこそ、『黒』の試みが成功しても失敗しても同じ結末に辿り着くというのなら。
「だけどせめて、願いくらいは叶えてやりたいだろうが……!」
 真剣な表情で読み上げる『黒』の姿は、どこか哀しかった。

 *

 最後の文字を読み上げ、ジルギールはそこで初めて、台座に落としてた目を前の池へと向けた。
 黄金の水が陽を弾く水面のように輝いて揺れている。池の底から文字か浮かんでは消え、浮かんでは消え、中央から描かれる波紋に従って、大理石の縁へと光の粒を滑らせていった。
 どこまでも規則正しく、整然とした光の動きに、ジルギールはふと肩を落とす。
「……成功、か?」
 どこからともなく響いていた不協和音は、いつの間にか消え失せている。
 遠くから上がる、控えめな歓声。ルエロが小さく頷いたのを認め、ジルギールはほっと胸をなで下ろした。仕切り直しという形にはなったが、とりあえずの急場は回避できたと安堵の息をもらす。
 そうして、台座から足を下ろし、

「!」

 ジルギールは、その場にかがみ込んだ。
「ぐっ……」
「『黒』!?」
 誰かが叫んでいる。その声が、どこか、遠い。
 強烈な吐き気と目眩が襲い来る。耳鳴り。心臓の音だけがやたらに高く、速く全身に響く。
 踞り、口元を手で押さえ、ジルギールはこみ上げてくるものを吐き出した。
「は、……、はぁっ……」
 荒い息の間から黒い靄が漂い、ジルギール周辺をぐるぐると回る。霞む目で掌を見れば、胃の腑からこみあげ、掌に流れたものもまた、体液ではなかった。黒い、黒い、粘性を帯びた霧。
 震える手足。全身から吹き出し、流れ落ちる汗が床に落ちて作ったしみもまた、黒。
 見開いた目に、ゆっくりと、黒く染まりつつある指先を見る。黒い染みはそうして前腕を昇り、上腕へと伸び、肩へ、首へと広がっていく。
 浸食される。
 汚濁でしかない負の感情と底知れぬ恐怖が、貪欲にジルギールの心を蝕んでいった。
 急激な術力の行使に疲弊した精神では、――とても、抗いきれない。
「逃げ……」
 喘鳴のように、喉が鳴る。
「……逃……げ、ろぉぉー!」
 無我夢中、しかしありったけの力を込めて、ジルギールは高く叫んだ。
 途端、噴出する、『黒』の力。全てを呑み込むような闇が立ち上り、天井を破壊して渦を巻く。
「逃げ、……」
 再び絞りだそうとした警告は、言葉にならぬまま唇を震わせた。求めるものも判らぬまま、揺れる指先が何かを探して宙を掻く。
 ――守らなければ。
 必ず還すと、約束したのだ。
 思い描き、ジルギールは固く目を閉じる。
 そしてそれは、彼に残された自我の、最後の行動となった。

 *

 室内を吹き荒れる黒い風。目も開けていられないほどの突風に、ラギは茫然と立ちつくした。
「暴走……」
 術力の異変を感知したジルギールが、滞在していた場所を飛び出してすぐ、当然ラギ立ちも後を追った。だが、十数メートルの高低差を一気に飛び降りるような『黒』についていけるはずもない。結果、王宮の中を大きく迂回していく羽目になったラギたちは、遅れてこの場に辿り着くことになったのである。
「クローナ!」
 腰を抜かしたセルリアの文官や術師を、外へと誘導していたクローナは、蒼褪めた顔でラギの方を振り返った。
「無事か!? 一体何が起こったんだ」
「わたくしは大丈夫ですわ。それよりも、アスカと殿下が」
 これまでの経緯を大筋で聞いたオルトの顔が強ばっていく。
「この方たちを逃がしたら、お兄様たちを呼びに行こうと思ってましたの」
「それはいいが、……中はどうなっている?」
「今はまだ、力の放出は、」
 言いかけたクローナの語尾に、激しい爆発音が鳴り響く。
「っ!」
 爆風、そしてそれだけで気圧されそうな力を感じ、ラギは息を詰めた。後退していく足に力を込めて踏ん張り、ひと動作で防御壁を前面に展開する。
 案の定、攻撃は一撃だけでは済まなかった。太い柱に一瞬で砕け散るほどの衝撃波が全方位に向けて放たれる。
「うわ、あああああっ!」
 逃げ遅れた誰かが、悲鳴を上げた。
「助け、」
 そして、直後に途切れる声。粉砕された体は肉片、否、血液のひと雫さえも分解され、宙に霧散していく。凄まじい威力。ラギは冷たいものを背筋に滑り落とした。
(範囲は狭いが、力はナルーシェの時以上……)
 下手に近づけば、防御壁でさえも貫通するだろう。
「逃げろ!」
 帰還術に立ち会っていた文官と警備兵に向かい、グエンが叫んでいる。『黒』が放った攻撃を受け流し続けていただろう大剣は既に半ばから折れ、彼自身も満身創痍の出で立ちである。かつては向かい来る『黒』に真正面から敢然と立ち向かった彼ではあるが、それでも理性という名の抑制を無くし、力を増しゆく『黒』には敵うはずもない。
 ラギは、萎えそうになる気力を振り絞り、後方のふたりを振り返った。
「……通じるか判らない。だが、やるしかない」
 蒼褪めた顔で頷くユアン。任務とあらば、いくらでも冷静になれるはずの彼が、彼をも知らぬうちに奥歯を鳴らしている。
 オルト、そしてクローナに視線を戻し、ラギは最後の望みを託すように妹の肩を叩く。
「私たちの力が及ばなければ、……判るな?」
「承知しておりますわ。その時は、わたくしもまた、役目を果たすまで」
 クローナの結界能力では、極限の暴走を来した『黒』には太刀打ちできないだろう。それこそ、命を賭けて術を発動させたとしても、勝機は僅か。それでも、切り札には違いない以上、彼女の出番が訪れるまでに、ラギたちは出来うる限り『黒』の力を削いでおく必要があった。
「……頼む」
 それ以上は何も言えず、ラギは無言で他のふたりを促した。
 頷き、承知したようにユアンとオルトはそれぞれの方向に散らばっていく。三点式捕縛術は文字通り、離れた三つの位置からその中心に居る『黒』を捕らえるものだ。同じ方向からかばい合うことは出来ない。誰一人が欠けても成らぬ術だけに、それぞれの心に重圧がのしかかっている。
 ふたりの去る方向を確かめ、ラギは防御壁を再展開した。それでも、『黒』の放つ衝撃波は恐怖を伴って体へと伝播する。
 暴風が足下を掬い、火炎が塵すらも焼き尽くす。うねる闇の手は短い周期で黒いプラズマを放ち、触れたもの全てを粉砕していった。歩くのも困難なほどの視界不良、それ故に、惨状の詳細を知ることが出来ないのはある意味幸いか。


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