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 すぐ先も見えぬほどの濃い闇の中、ラギはふと、未だ原形を留めている石の台座を見つけて足を止めた。強い術の名残が、『黒』の放つ力を僅かに相殺しているようである。
(まだしもか……)
 止まる場所に決め、他の2人へ合図を送る。鋭い指笛が鈍く空間を裂き、一拍遅れてふたつの音を響き返した。
 額から流れる冷汗を拭い、ラギは両手を握りしめる。
「術式開始……」
 ひとりごち、ともすれば恐怖に阻害されそうな意識を戒める。集中と共に青く発光していく両手を前に突き出し、ラギは二方向からの反応を待った。地から響くような轟音のもと、より高く通りやすい高音でもなければ音は届かない。そして、両手が塞がれた今は、それを奏でる手段ももちあわせていなかった。
 恐ろしく長い数秒の後、赤と、続けて緑の光が闇を越えてラギの元へと届く。こみ上げる安堵の思いを敢えて封じ、ラギは両腕を左右に広げた。
 同時に掌に、暖かい力を感じる。左右の力の波動に差があるのは、三人が作っている三角形が少し歪な為だろう。だが、僅かな不完全さを補うことに固執する気はなかった。どれだけ完璧な術を発動しようと、一度では済まないだろう事は予測ですらなかったからである。
(くっ……)
 力を分配し、一度は広げた両腕を近づけていく過程で、ラギは奥歯を噛み締めた。踏ん張る足と両腕が、大きく震えている。『黒』からの抵抗が、全身の力を振り絞らねばならぬほどの負荷をかけているのだ。
 流れ落ちる汗を拭う事も出来ず、ラギは固く目を閉じる。僅か数秒にして、既に両腕に感覚はない。だがそれでも、同じ苦痛を堪えているふたりのことを思えば、自分だけが挫けるわけにはいかなかった。
 抵抗との攻防。
 やがて閉じきった両腕から、中央の一点に向けて閃光が走った。ほぼ同時、三方から一直線に飛んだ三色の光が、闇の最も濃い部分で合流し、白へと昇華する。
 直後、それまでにない強い衝撃が全方位に放たれ、ラギは石の台座へと倒れ込んだ。
「オルト、ユアン……!」
 叫ぶが、むろん返事はない。
 僅かに威力の減じた風が、彼らの努力がけして無駄ではないことを示している。だが、それだけだった。中央で起こった光は、その時既に闇の浸食を受けている。それらが喰らい尽くされたとき、再び『黒』は力を盛り返すだろう。
(全力で、この程度か……)
 茫然と、ラギは目の前の光景を見つめた。続けて使い続けなければ、という思いとは裏腹に、両手は細かく痙攣を繰り返している。力の反動に毛細血管が破裂し、皮下出血に腕は腫れ上がっていた。
 術力はあれど、既に体の方が悲鳴を上げている。とても、連続で術を放てる状態ではない。ユアンやオルトからも新たな術の発動が見られないことを思えば、彼らも又似たような状況なのだろうこと、想像に難くない。
(最期、かもな)
 思い、ラギは拳を床に叩きつけた。
(――だが最期まで、あの人は止まろうとはしなかった)
 暴走から既に数十分。被害の範囲が限局されているのは、未だ『ジルギール』が抵抗しているからに違いない。
 苦痛を押して立ち上がり、ラギは再び両腕を突き出した。
(気付いてくれ……)
 掌が青く発光するまでは、先ほどの倍の時間を要した。皮膚からじわじわと流れ落ちる血が床を染めている。
 だが、二方向からの反応はない。
(駄目か……っ)
 無駄と知りつつ、ラギは大きく息を吸い込んだ。そうして、二人の名を叫ぼうとした、――その時。
「!?」
 ふと、黒く不透明な視界の隅を、何かが横切った。『黒』からの攻撃ではない。逆に、『黒』へと向かう何か。
「え!?」
 人だ。ぎよっとして、ラギは目を丸くする。だが見定めようとした矢先に、それは闇の中に消えた。
 代わりに背後、まさしく思わぬ方向から鋭い声が飛ぶ。
「そこの青の。力を貸せ!」
 苦しげな、だが炯と光る力強い両眼でラギを睨む顔。
 ルエロ・ベルガが、スエインの支えのもと、杖状の術補助具を構えていた。

 *

 ゆらゆらと、揺れる。
 還る事が出来たのだろうかと思い、飛鳥はゆっくりと寝返りを打った。持ち上げ、下ろした腕に、水がかかる。それは小さく波紋を描き、飛鳥の体へと振動を伝えた。
 風の唸る音がする。嵐のような、不気味な咆吼。
 飛鳥は恐る恐る目を開けた。だが、何も映らない。深い深い黒が、呑み込まれそうな闇が一面を覆っている。
(夜……じゃない)
 例え嵐でも、日本ならどこかに光が灯っている。遮光カーテンの隙間から光を投じるネオン。職場に近い、街の中心地区に住んでいた飛鳥が、自宅で何も見えないほどの闇を得ることなどできないのだ。
 だが、今は真実、己の掌すらも確かめることが出来ない。
(まだ、あの世界に……?)
 それにしても、おかしい。帰還術が行使されたのは陽も昇って間もない朝、憎らしいほどの快晴で、金色の水面は眩しいほどに輝いていた。
(……まさか)
 野営の時ですら、衛星や星の光があった。真に人を呑み込む闇があるとすれば、
「!」
 思い出し、飛鳥は勢いをもって身を起こした。
 ジルギールだ。襲撃を受けたあの未明、我を忘れた彼の周りに立ち上った黒い靄、あれは、未明の暗ささえも呑み込んで、彼の周囲の背景をただの黒に変えた。それに、似ている。――酷似している。
「ジル……」
 飛鳥は、両腕を突いてありったけの力を込めた。ともすれば萎えそうになる体を無理矢理に立ち上げ、落ちそうになる意識を気力だけでつなぎ止める。思うように動かない体は、この世界に呼び出された直後と全く同じだった。
(あの時は、歩けなかった……)
 数ヶ月前と違うことがあるとすれば、それは彼女の意志でしかないだろう。今は、心の底から突き動かす思いがある。
 思い出し、飛鳥は近くに落ちていた杖をたぐり寄せ、強く握りしめた。半ばから折れ、先端は鋭く尖ってしまっているが、もともと下になっていた部分はひび割れるでもなく充分な硬さを残している。それを支えに彼女は遂に、一歩前へ歩き出す。
 状況は判らない。おそらく、術は失敗したのだろう。そこに何故ジルギールが居るのかも判らないが、彼が暴走したのならば、それは自分のせいだと思った。自惚れてもいいのなら、これまで彼が暴走する切っ掛けを作ったのは、全て飛鳥だったからだ。
 そう、――優しい彼は、飛鳥の為に怒り、飛鳥が元の世界に戻すことに全力をかけてくれた。


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