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(その結果が、今の状況なら)
 飛鳥にはむろん、自我を無くし暴走したジルギールを戻す方法など持ち合わせてはいない。彼女は三色の従者でも、クローナのような結界能力保持者でもないのだ。無力な、この世界で一番弱い人でしかない。
 だが、そうと判っていて尚、飛鳥は重い足を引きずり、ひた走る。黒い渦の中心点は、時折滲む弱い光が教えてくれた。行く手を阻む障害は、飛鳥を包む不思議な光が相殺していく。
 この時の飛鳥は、状況など判っていなかっただろう。この嵐のような空間で、何故自分が無事に居るのか、何故攻撃を受けることもなく歩くことが出来るのか。
 考えなかったわけではない。ただ本当に、自分の身のことはどうでも良かったのだ。
「ジル、――ジルギール!」
 ただひたすらに黒い、それに向かい、飛鳥は必死に呼びかける。腹の底から力を振り絞って出すその声は、荒野で、縋るように出した声に似ていた。
「ジルギール!」
 悲鳴。
 同時にそれは、振り向くようにうねり、そうして、突然、動きを止めた。闇を裂くように光が当たって弾け飛ぶ。息を詰めて目を見開けば、飛鳥からそれを挟んで反対側に、赤と緑の、淡い光がまとわりついていた。
 更には、背後からの追い風。遅れてやってきた青い光が、正面からそれを包み込む。やがて三色の光は収束し、目映いほどの白となり、黒の波動を抑え込んだ。
 内部でもがき、白を喰らおうとする黒。
 ああ、と飛鳥はそれが何であるのかを悟った。三点式捕縛術。だが、弱い。
(駄目だ)
 飛鳥の呼びかけも、捕縛術も、もう彼には届かない。
 『白』はあまりに遠く、彼を彼のままに止める術はない。
(だけど、暴走なんて、ジルは望んじゃいなかった)
 最後まで、この世界の未来を案じていた。
 だから、彼が、この世界を破壊することなど望んでいないなら、――私が。
「ジルギール!」
 もがく黒、点滅する白。灰色の世界に立ち、飛鳥は再び叫ぶ。
 そうして全身の力を振り絞り、折れた杖を持ちかえ、あらん限りの力で地を蹴った。

 ”――私が、殺してあげる”

「あああああっ!」
 無我夢中の悲鳴。だが、己の行為を否定する叫びとは逆に、掌は固く武器を握りしめたまま。『失黒』の名に押されるように飛鳥は走る。
 立ちはだかる闇の核。
(ジル)
 捉え、飛鳥は、そのまま、黒の中心を、――貫いた。
「……!」
 掌に、確かな感触。セルリアの『失黒』を刺したときと同じような、手応え。震える指先に、粘性を帯びた液体が杖を伝い流れ来る。
 黒い、どこまでも黒い体液。だが、温かい。
 血と、おそらくは具現化した力そのものだ。
 怖れとともに反射的に杖を引き抜いた飛鳥は、途端、そこから噴き出された更なる体液に全身を染めた。
 全てを吸収するように黒い闇の手が、人の形をした黒い塊と、滴るほどに濡れた飛鳥の体を包み込む。抵抗する余力もなく全身をそれに委ね、飛鳥は震える手を差し伸べた。
(……温かい?)
 だが同時に、底冷えするように冷たくもある。
 深い安心感と強烈な忌避とが交互に入れ替わり、生まれるのは、深い底に落ちていきそうなほどの不安と哀しみ。
 涙も出ない、立っても居られない、胸の奥底に穴が空くような、喪失感。
 そうしてふと飛鳥は、流れ込んでいくるその感情の正体に気が付いた。
(ああ、これは)

 死、だ。
 全てを喰らい、或いは同化する、黒い、黒い闇は。彼がずっとその身に抱え込んでいた力は。

 ――『黒』は”死”そのものなんだ。

 落ちていく意識の中で、ただ、彼だけを思う。

 *

 『失黒』がその場に崩れ落ちた直後、臨界点に達した力は、光と闇の点滅を繰り返しながら、廃墟と化した一帯を駆け抜けた。
「!」
 その場に生き残っていた面々は伏せ、或いはかろうじて残っていた礎にしがみつき、不可視の力が通り過ぎるまでを抗った。
『黒』の断末魔であるそれは、本来ならそこにある全てを破壊し塵に還すはずの力である。だが何故か、『黒』から発せられたものでありながら、その感覚はニュートラルだった。中和と呼ぶにも障りあるような、あまりに完璧な均衡。
 あらゆる方向性の力を過不足なく無に帰した、その名残、――そう表現したのは『白』の後継者であり、むろん、後日のことである。
 この時はただ、誰もが己の混乱を鎮めることだけに精一杯という状況だった。
「……っ」
 小刻みに震える体を真っ先に起こしたのは、スエインである。金色の池、その術力の残滓がまたもや力を緩和していたのだろう。他の者が地面にしがみつき、或いは意識を失っている中、彼は呻きながらも完全に上体を立てることに成功した。
「……くそ」
 ふらつく頭を手で押さえ、暴力の中心地点へと目を向ける。
 ――倒れている人の姿が、ふたりぶん。
「どうなった?」
 目を凝らそうと細めた矢先、横からかかった声に、スエインはぎよっとして体を引いた。
「『黒』は殺れたか?」
「……ルエロ、あんた、起きてたのかよ」
「これしきの事で気を失うほど間抜けではない」
 意識も感覚もはっきりしているが、起き上がる余力はないのだろう。捻くれた返答に苦笑しつつ、スエインは目を細めて再び『黒』へと意識を向けた。そうして今度こそ目を凝らし、――瞠目した。
「どうなった」
 ルエロが焦れたように再び問う。だが、スエインには彼の望むことを答える余裕はなかった。
 目を見開いたまま、茫然と、ただ唇を震わせる。
「……なんで、生きてんだ」



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