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 *

 初めに、指先に冷たさを感じた。
(……生きてる)
 腹部に焼け付くような痛みがある。少し頭を動かしただけで、激しい目眩が襲う。
 だが、生きている。自分の意識を持って、生きている。
(何故……)
 もう、駄目だと思ったのだ。これが最期なのだと。完全に、自我を手放していた。現に、逃げろと叫んでからのことは、全く覚えてはいない。
(――そうだ)
 意識を飛ばす寸前まで、自分が何をしていたのかを思い出し、ジルギールは無理矢理に立ち上がる。
「殿下!」
 それまで、恐ろしいほどに静まりかえっていた場に、悲鳴のような声が響く。
「殿下、無理を、」
「……ラギ」
「どうか、横に」
 駆け寄ってきたラギを手の振りで退け、ジルギールは一歩、前へ足を動かした。無意識にも、そこへの攻撃だけは避けたのだろうか。殆ど何もなくなったその場所で、唯一、飛鳥を還すための池だけが形を残している。そこへ向かい、重い足を引きずり歩く。
「殿下!」
「……退け。アスカを、戻してやらないと」
 再構築の式と共に入り込んできた知識が、方法をジルギールに教えてくれた。膨大な術力をもってすれば、複数の術師の補助や文字列の介助は不要だろう。媒介の液体と飛鳥が呼び出された、つまりは一番条件の近いこの場所さえあればいい。だが、セルリアは『黒』に手を貸しなどしないだろう。
 今この時が、自分の手で飛鳥を還してやれる最後の機会だと、ジルギールは、ともすれば倒れてしまいそうな体に鞭を打った。
「殿下、お待ち下さい!」
「くどいぞ、ラギ」
「いいえ!」
 いつになく強い調子で、ラギが前に立ちはだかる。
 苛立ちを覚え、ジルギールは腕を振るう。
 自分は『黒』だ。誰もが触れることを拒む。本能で、人はジルギールを避ける。故にラギはその場を……
「いけません、殿下!」
「!」
「アスカを、戻してはなりません!」
「……何を」
 言葉以上にジルギールは、掴まれた肩の熱さに動揺を覚えた。
 三人の内で、誰よりも『黒』を恐れていた男が、自分の肩に、手を置いている。さして強くもない力は、しかし、その行動自体をもってジルギールの動きを封じていた。
「何を、――言って。……それに、あんた……」
「――アスカが、あなたを止めました」
 瞠目。
 ふと、淀んだ空気を流すように、風が崩壊した室内を駆け抜ける。
「最期の、極限での暴走は、死ななければ止まらないはずです」
「……そうだ」
「アスカが刺し、あなたは止まりました。――だが、致命傷ではなかった。あなたは死んでいない」
 ふたつの矛盾する現実。
 力を抜いたジルギールの肩から手を離し、ラギは後方を指で指し示す。
 ジルギールは、ただゆっくりと、振り向いた。

 すすり泣くクローナの前に、――黒髪の女が倒れている。

 *

 声がする、と飛鳥は思った。

 ――この世界の創世、全ての事象は全ての生き物へと拡散した。

 どこからともなく、染み広がる声。否、そう言われているという感覚。四方八方から、身の内と外から、何者かが飛鳥に語りかけている。
 ――怒り、哀しみ、喜び、他多くの感情が生物に別れ、生物は感情を持った。
 ――幸、不幸、他多くの事象が生物に別れ、生物は個別の運命を得た。
 ――故に全ての生物は事象と感情の欠片を身に宿し、その役割を負って生き、力を振るう。
 ――そして最後に始まりと終わりが世界に溶け込み、生物は活動を始めた。
 ――ただ、始まりと終わりの力はそれ以外とは混ざり合えず、故にその力は偏ったままただひとりに受け継がれた。

 始まりの『白』と終わりの『黒』。生と死。
 自らの死を全く恐れない生物などいない。だから、その象徴たる『黒』は恐れ、忌避されるのだ。

 ――全ての者はその身のうちに宿る力をして世界を支える。欠けることはなく、この世界の続く限り。
 ――色を持たぬ者よ。
 ――はじめのひとりは力を欲し、次のひとりは傍観を選んだ。
 ――ふたりと持ち得ぬ、孤高の色を宿した者よ。
 ――知ってはならぬ理を知り得た者よ。
 ――お前は何になろうと望む。

 茫洋と漂う中に、問いかける思念。いくつもの声が反響し、飛鳥の中に染みていく。
 理、だ。
 この世界の理が、ここに居るための問いを放っている。それは勿論、飛鳥には初めての経験で、すなわち、この世界を構成するものが、異世界の者である飛鳥を受け入れざるを得なくなったという証拠だろう。世界の一員となるために、組み込むための位置づけを飛鳥に選択させている。
 還れなくなったという事実を前に、動揺はなかった。ただ、そうか、とそれだけを思った。

 ――お前は何を望む。

 促す声が、脳裏に響く。
(私は)
 何をしたいのかなど思いつかない。何が有益で何が無益なのかも判らない。けれど、――願いが叶うなら。
(……手になろう)
 死が、『黒』が、けして無くならないものならば。せめてその最期の瞬間がひとりでないように。
(手から感じる温もりはきっと、誰かに縋ることの出来る安堵を教えてくれるから)
 その役割を負って生きる、彼の孤独が和らぐように。彼が静かに生きていけるように。
 ただ、それだけでいいと、飛鳥は思い願った。
 

 そうして、ゆっくりと瞼を開く。
 目の前に、泣きそうな男の顔。誰よりも優しい『黒』。
 手を差し伸べて、頬を撫でる。
 その温かさに、飛鳥は柔らかく微笑んだ。

>おまけの絵




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