[]  [目次]  [



 風雨に削られ、殆ど読めもしなくなった名前の列。墓石に刻み連ねられたそれをなぞりながら、エルダはただため息を吐いた。
 ――ああ、まさしく私たちは、彼らを不幸にした。
 今まで想像でしかなかったことが、それを上回る悲惨な現実となってエルダを殴る。そしてその衝撃は急速に、彼女の罪悪感を膨張させた。
 奇跡などではない、ただの人間だと。その反証を追い求めていたくせに、望み通り彼らが不幸に堕ちていた事実に胸を痛める。なんと勝手なことか、とエルダは嗤い、壁に拳を叩きつけた。
 もう彼らには、何の償いも出来ない。だが、彼らに帰すべきだった幸福を受け継ぐべき人物が残っている。
 残されたものにしがみつくように、エルダは謝罪の先を求めて調査を続けた。

 *

 古びた標識を確かめ、ヒューバックは納得するように頷いた。
「村まではあと少しのようです」
「予定通りだな。しかし、お前本当に付いてくるのか?」
「そのように申し上げました」
 わざとらしく息を吐き、エルダは無言で馬を走らせた。
 ヒューバックは別段、ニード夫妻の放逐に直接関わっていたわけではない。年齢を考えれば、大人たちがそうと決めたことに反対することも不可能だっただろう。
 後悔しているというのなら、自分が成人した折りに、同じく能力で人を差別する愚者にならないよう戒めるだけで充分だったはずだ。であるにも関わらず、そこで終わることができなかったのは、エルダたちの存在が近くなりすぎたせいだろう。関わらなければ沈んだままであったはずの罪悪感が、後悔の根源に近しい者を見続けているうちに浮上した。
 故にヒューバックは、事の顛末を見届けるためにここに居る。
(……無理矢理帰すのも酷か)
 生き別れた姉妹と、感動の対面をするわけではない。『白』を身内にもたなければ、ささやかでも得られたはずの平穏な生活を還元するために駆けているのだ。
 その話し合いにひとり加わろうと大差あるまい、とエルダはちらりと後ろを振り返った。
「私を見張っていたということは、お前にも、私の妹の所在が判らなかったのだろう?」
「その通りです。……お恥ずかしながら」
「まぁ、無理もない。私も判らなかったのだからな」
「……と、仰いますと」
「レオットに頼った」
 なるほど、とヒューバックは白い息に納得の微苦笑を混ぜたようだった。
「両親を亡くした孤児の足取りなど、掴めるわけもない。大きな犯罪に手を染めたのならともかく、そういった経歴はないようだったからな」
「さすが、と申し上げておくべきでしょうか」
「ああ、まったくだ。便利すぎて、嫌になる」
 どこか達観した雰囲気の弟を思い浮かべ、エルダは眉間に皺を寄せた。それまで、周囲の好奇の視線に泣くだけだったレオットが、急に目覚めたように態度を変えたのは10歳ほどのことだったか。
 その時、何があったのかはエルダの知るところにもない。レオットは、その件に関しては頑として口を割らないのだ。否、彼自身にも言うことが出来ないのかも知れない。
 そして変化の代償に、彼は未来を垣間見る力を手に入れた。エルダを助けるために。
 だからこそエルダは、尚更その力に頼ることを良しとしない。
「……莫迦が」
 呟きを聞きとがめ、しかし、ヒューバックは何も言ってはこなかった。
 風の鳴りと蹄が土を掻く音だけを耳に、暗い道を進むことしばし。遠くの方に点滅する光を認め、エルダは安堵の息を吐いた。
「あそこだな」
「そのようです。――ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「この先に、まともな規模の村はございません。陛下の妹君は、ずっとそちらに?」
 治安としては悪くない。だが、牧歌的な片田舎かと問われれば否と答えざるを得ないだろう。街道から大きく外れ、痩せた土地に人から忘れ去られたように、その村は存在する。土地に愛着を持つ者の集落というよりは、他に行く場所の無かったはぐれ者が、着の身着のままで辿り着くような場所だ。
 頷き、エルダは厳しい目を前方に向ける。
「そう、らしい。まぁ、身寄りのない子供である上に、非常に薄い色の髪だというからな……。条件が悪すぎる。だがレオットの占いによれば、その村で結婚して、今は平穏に暮らしてはいるらしい」
「どうなさるおつもりで? 王宮に召し上げられるのですか?」
「それは、反対に辛い目に遭わせるだけだろう。姉であることは語らずにいようと思う。両親に恩があった、とでも言えば、疑う証拠はない。今日の所は、一度王宮に来てもらうが、最終的にはどこか、もう少し条件の良い土地でも紹介して、それで終わりだ」
「はい。私もそれがよろしいかと」
 言い、ヒューバックは馬足を緩めた。灯りは段々と大きくなっている。疾走する馬蹄の響きは、深夜の大気を大きく震わせてしまうだろう。
 倣い、エルダも速歩に落とす。見上げ、星の位置を確認すれば、時間的な余裕は充分にあるようだった。
 緩く馬を走らせ、最終的に並足で集落にたどり着く。
 そうしてそこで、エルダは眉根を寄せた。
「……物々しいな」
 ヒューバックもまた、困惑の色を浮かべて周囲を探る。不安が不審に取って代わるまでにはさほどの時間も必要としなかった。
 ざわざわと落ち着かない空気。緊張に張り詰めたその気配は、エルダにとって嫌というほど覚えのあるものだったからだ。恐れと畏れ、絶望と混乱を含んだ風が吹き抜ける。
 『黒』、と呟き、ヒューバックは喉を鳴らした。まだ不安定な、しかし強大な力の波動が集落を包む。
「案ずるな、お前の隣にいるのは誰だ?」
 無感動な声で告げ、エルダは馬を進めた。ろくな灯りもない集落のほぼ真ん中で止まり、再び周囲の様子を探る。
 息を潜めて家の中で震えている者、『黒』を殺すために奥へと向かう者、今にも逃げだそうと荷物をまとめている者、村人の取った行動は様々だったが、いずれにしてもさほど人数はいない。世帯をひとくくりとして考えてみれば、両手に余る程度だろう。
 『黒』の気配は集落の更に端、他の村であれば村八分にでもなったかと疑うような場所から漂っている。躊躇うヒューバックを余所に、怯える馬を下りたエルダは、迷いない足取りでそちらへと歩を進めた。結界は既に展開しており、如何なる者も彼女に逆らうことはできないようになっている。
 『白』は『黒』など恐れはしない。自然と無口になるエルダの胸に巣くっているのは、緊張ではなく不安だった。符合する幾つかの情報が、考えたくもない結論を前面に押し出している。
「――止まれ!」
 鋭い声に、逆らうことなくエルダは足を止めた。
「何者かは知らないが、こっちは危険だ。今すぐ去れ」
「何があるのだ?」
「こっちゃ、親切心で言ってるんだ、こんな時間に宿でも乞いに来たんだろうが、悪いこた言わねぇ、元来た道を引き返せ」


[]  [目次]  [