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「……お前たちに、『黒』を殺せるとは思えんがな」
「気付いてるなら、何で来るんだ!?」
「私を誰だと思っている」
 言い、エルダは粉雪の張り付いたフードを取り払う。
「道を空けろ」
「……『白』!」
「頭の悪い者は好かん。退け、と私は言った」
 払いのける仕草だけで、立ちはだかっていた男は転ぶように横に飛び退いた。そうして、我に返ったように喉を引き攣らせる。
「おい、――おい! 皆、『白』が来て下さったぞ!」
 余計なことを、と思い、エルダは騒ぐな、と「命じた」。途端、一瞬驚愕にざわめいたはずの周囲からぴたりと音が止む。
「来い、ダムサ」
 命令ではないにも関わらず、ヒューバックの表情は硬い。苦笑し、エルダは彼へと目を向けた。
「今更、何を驚いている」
「……いえ、目の当たりにするのは初めてで……」
「そうか。すまなかったな」
 結界術というのは、体や状態を思い通りに操るというものではない。意志に反した行動を取らせるのではなく、意志の方をねじ曲げてしまうのだ。右を向きたいと思っていたとしても、『白』が左と命じれば、その瞬間に、あたかも初めから左を向きたかったかのように思いを変えてしまう。そうして命令通りの行動を取った後に、ふと違和感を覚えるのだ。
 まだしも『黒』の方が、人間らしい力を持っている、とエルダは思う。
 仕掛ける方も仕掛けられた方も、慣れるものではない。できれば使いたくはなかったのだが、と独りごち、エルダはヒューバックを促した。
 頼りない灯りの下、湿った道を進むことしばし。誰もが息を潜め、静まりかえった道を行き、突き当たりで彼女は足を止めた。今にも崩れ落ちそうな破れ屋から、強烈な『黒』の気配と、濃厚な血の臭いが漂っている。
「……陛下」
「わかっている」
 覚悟を決めて小屋の扉を開け、そうしてエルダはため息を吐いた。
 ――ああ。
 嘆く気にもなれないような光景。白のように薄い、しかし白ではない灰色の髪が、薄汚れた床に広がっている。恐怖に見開かれた目、そうして露出したままの下半身を大きく開いたまま、女は胸に深々と斧を突き立てて絶命していた。女陰から流れた大量の血と羊水、そして中途半端に出かけている胎盤が、まさに出産の直後であったことを示す。
 そんな事切れた女の足下で、『黒』は弱く啼き声を上げていた。
「……女を殺したのはお前たちか」
 室内でそれぞれの武器を構えたまま固まっていた男たちに、エルダは問いかける。それを受けて、村人たちは互いの顔を見合わせた。
「お、俺たちゃ、その、さっき来たばっかなんで……。その、俺たちが来たときには、もう、女は死んでおりました。ただ、その……、念のため、でさぁ」
 出産を手伝ったとおぼしき老婆は既に、部屋の隅で絶命していた。彼女の手は汚れていない。であるにも関わらず『黒』は生まれ、臍帯は綺麗に切れている。出血も止まっている。おそらくそれらは全て、『黒』自身が生き延びるために力を振るった結果のことだ。普通ではありえないことだが、『黒』がそういった驚異的な自衛手段に出ることは、けして珍しいことではない。
 犠牲となった女ふたりには痛ましげな視線を送り、そうしてエルダは、もうひとりいるべき人物について問いただした。
「父親はどうした」
「へ、へい……、父親は今、仲間が埋めてまさぁ」
「殺したのか」
 呟き、胎脂に汚れたままの『黒』を抱き上げ、エルダはその額を撫でた。途端、ぴたりと止んだ啼き声に、数人の口から歓声が漏れる。
 物騒に目を細めたエルダに気付き、ヒューバックは村人を小突いて回答を促した。
「は、はぁ、そりゃ、『黒』なんて化け物を作った連中ですぜ、呪われてまさぁ。こんな辺鄙な場所で、更に呪いがかかったとあっちゃ、俺たちも生きていけませんので……」
「どうぞ、殺して下さい。お願いします」
「このままでは、近隣の村にも迷惑がかかりますので……」
 村人の訴えは、世界では常識的なものなのだろう。
 『黒』の暴走を防ぐ術が限られている以上、まだ未熟な内に殺してしまうより他に対処法はない。それを憐れだと――思う者がいるのかは不明として――生かす方がおかしいのだ。
 世界の汚濁。害でしかない存在。
 本人にはどうしようもない理由で蔑まれ、親を不遇の内に亡くし、食うや食わずの底辺で生きてきた女が、ようやく得た小さな幸せの先に産んだ子供が、――『黒』。
 奇跡の『白』の双子と同じ腹から生まれた女が『黒』を産む。なんたる皮肉。これが神の御技であるなら、二度と祈りなど捧げない、とエルダは拳を握りしめた。
「……どこまで、私たちを莫迦にすれば気が済むのだ」
 呟き、エルダは『黒』に手を伸ばす。
「――いいさ、運命などに殉じてやる義務はない」
「『白』……?」
 啼く『黒』の額に手を当てたまま動かぬエルダに、村の男が不思議そうな伺いをたてる。
 エルダは、罪を知らぬ子供の、深く澄んだ黒い目を見つめながら、胸に去来した決意を口にした。
「お前は、私が引き取ろう」
「陛下!?」
「王宮へ連れて帰る」
 決定的な一言に、ヒューバックよりも先に、村人が悲鳴を上げた。
「そんな、ここで、殺しちまって下さい!」
「この国に、『黒』を置いとくってことですか!?」
「冗談じゃありませんぜ!」
 口々に殺せと叫ぶ男たちを睨みつけ、エルダは踵を返す。
「……陛下」
「もう、決めた」
 世界が人間を嗤うなら、それに逆らってやると。『黒』は『黒』、どう手を尽くしても、彼が幸せになることはないだろう。だがそれでも、出来る限り守ってみせると。声もなく殺されていく『黒』に世界を見せてやると、エルダはその時はっきりと己の胸に誓った。
「その女は、普通に埋葬してやってくれ。父親もな」
「そんな」
 悲鳴を上げる村人に、エルダは皮肉を混ぜた笑みを浮かべてみせた。命じられたわけでもなく、その一種独特の表情に打たれて、男たちは口を噤む。
 物言いたげなヒューバックから視線を逸らし、エルダは空を見上げてひとりごちる。
「『白』を産んだふた親でさえ、不幸に堕ちたのだ。『黒』を産んだからと言って、呪われることなどないだろうよ」
 それが、ニード夫妻に連なる血筋の結末から出た答えだった。

 *

 いつの間にか王宮に出現した『黒』は、当然、好意的に迎えられるはずもなかった。エルダの結界で常に『黒』の力は制限されているとは言え、不気味な存在であることには変わりない。世話をする者もなく、乳飲み子は必然的にレオットに預けられることが多くなっていった。
 後に振り返り、あれは一番忙しい時期だったとレオットは苦笑する。育児などしたこともない彼だが、まさか国王に育児休業を取らせるわけにはいかなかったのだ。子供の『黒』はまだ力が不安定だが、そのぶん、生命の危機を覚えると最大限の力を惜しみなく発揮してくるため、気の抜けない日々が続く。
 そんな折り、少しでも速く仕事を終えようと奮闘するエルダの元に、西方からダムサ・ヒューバックが訪れた。公式な訪問ではない。万事スマートに物事を運ぶことを好む彼にしては、少々強引な面会要請だった。


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