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(序)


 見上げた城壁の高さに、アリアは目を見開いて息を飲み込んだ。
 北の大国キナケスの王都、シクス。長い旅路の果てにたどり着いたその場所の、言葉では言い尽くせない威容に、アリアは疲れも忘れて圧倒されていた。
 長期の籠城にも耐えうる堅牢な造りだが、けして無骨ではない。数人の男の手によって左右に開かれた大門には細かな装飾が施され、気の遠くなるような年月によって作られた重厚な威厳が漂っている。その奥、様々な露店の並ぶ大通りが見えなければ、通ることさえ躊躇われたに違いない。
 掃き清められた石畳、人も声も鮮やかなほどの喧噪。北方全ての富が集うとされるが、それもあながち誇張でもないということか。
 ゆうに6、7人の大人が横列で歩くことの出来る通りの中央を、焦れるほどゆっくりと車輪が回る。カタコトと規則正しい音と小刻みな振動は、荒れ地に慣れた体には頼りないくらいだった。無論、慣れたからといって、快適かと問われれば答えは否でしかあり得ない。アリアは、窓の外に目を遣りながら苦笑した。
 厚いヴェールに覆われた馬車の、その隙間から差し込む強い陽光。よく知ったくすんだ空とはあまりにもかけ離れていて、力強さ、そして何もかもが目に痛い。眩しく賑やかで、豪奢な色彩の渦に巻き込まれたような錯覚を覚えて、それは目眩すら引き起こす。
 初めて見るものの多さに、思わず身を乗り出したアリアの耳に、慌てたような声が飛び込んだ。
「落ち着け。気持ちはわかるが、とりあえずは、しとやかにふるまわねばな」
 笑い含みの困ったような声音。嗜めるというよりも宥めるという印象が強い。殆ど反射的に、アリアは顔を赤らめてうつむいた。
「怒ってるわけではない。わたくしも心騒いでいる。だが、とりあえずは我慢だ。呼び戻して下さった義兄や陛下にご迷惑がかかることは避けねばな」
「す、すみません……」
「まぁ、呼び声がかからなくとも、イースエントからはそのうち追い出されただろうが、折角こそこそと戻らずに済む機会を作って下さったのだ。せいぜいおとなしくしていなくてはな」
 優雅な仕草を持ちながらも何故か雰囲気だけは闊達に、大振りな笑顔を見せる主人。
 発言が全然おとなしくありません――そう、心の中で呟いておいて、アリアはただ曖昧に頷いた。視線だけを右横に向けると、同僚であるレンも苦笑を口元に刻んでいる。思いは同じだろう。目の前の主人に何をどう突っ込んでも、真正面から叩き返されるだろうこと、想像に難くない。
 座右の銘は「それがどうした」。そんな不敵な主人にも、仕えて今年で十年。それを早いか遅いか見るのは人次第であるが、アリアはどちらかといえば前者だった。
 変わらぬ馬車の振動に身を委ねながら、かの日を思う。この人に出会えていなかったら、今頃自分は生きてはいなかった。それが良いことなのか否か、定める権限はアリアにはない。ただ、答えを知っていて、悩む。今自分が、生きていることに幸せを感じるが故に。
 堂々巡りに陥りかけた思考を断ち切るように、アリアは頭振って唇を引き結んだ。
 この人に付いていこう、そう決めて今ここにいる。彼女を襲うであろう困難から護るために、そして彼女と交わした約束を守るために遙か北の地から付いてきたのだ。今更どうしようもないことで悩んでいる場合ではない。
「ディアナ様、あれを」
 右隣に座るレンが明るい声を上げた。主人と同様、それに導かれるようにヴェールの隙間に顔を向ける。探すまでもなく目に入ったのは、色とりどりの花びらの雨だった。そして、花と共に風に流れ来る、人々のざわめき。
 ほどなくして、高らかにラッパの音が響き渡った。
 わ、と歓声が上がる。
 その内の何人が果たして、本当の意味の喜びを向けてくれているだろうか。内心に渦巻くもやもやとした感情は、気づかぬうちに表情として表れていたらしい。レンに肘を突かれて気づき、アリアは自分の失態に顔を赤らめた。
「も、申し訳――」
「わたくしの存在の重要性云々よりも」
 遮るように、ディアナは穏やかに微笑う。
「わたくしが帰ってこられるだけの安定が得られた、そのことを皆は尊ぶべきであろう」
 はっとして、アリアは顔を上げた。
 厭われてはいない。だが同時に歓迎されているわけでもない。ただ、義務として帰国という祝い事を皆は盛り上げてくれている。それを承知の上で、ディアナは嬉しそうに笑う。――それだけ平和になったことを喜べと。
「――はい」
 アリアと、レンは殆ど唱和するようにディアナの言葉を肯定した。
 愛すべき、賢き王女。アリアは主人をそう思う。どうかこの優しき人に幸あれと、心の底から願う。

 *

 亡命王女の帰還。
 実の伴わない慶事に、沸き返る王都。
 ――そうして、高見よりそれを見つめる双眸。
「……来たか」
 目を眇めて、彼は呟いた。磨かれた窓の外、人混みの中をゆるりと進む馬車、届く歓声に耳を傾ける。淡い緑に色づく木々と、吹き抜ける清しい風、目を眩ませるほどの光の恩寵、全てが彼女を祝福しているように思えた。
 だが、晴れやかな舞台の裏には、人という名の魔が潜む。彼女を待ち受けるのは、王族の女性としての華やかで豪奢な日々ばかりではないだろう。
「承知の上、か……」
 帰還を決めたときの彼女の目の勁さを思い出し、彼は口元に弧を描いた。
 願わくばあの高い歓声が、王宮への呪詛とならぬよう――……。

 *      *      *

 キナケス国年表に曰く――……。

 972年5月、国王ホランツ死去。同年、王太子ウエルトが即位の儀直前に死亡。第一次内乱開始。末王女ディアナ、イースエントに亡命。
 973年、第二王子レースト、第三王子ハインセック、第四王子ディオネルによる王位継承戦開始。
 974年10月、レースト即位。尚、ハインセックは幽閉。ディオネルは離宮へと移る。
 976年7月、国王レースト死去。同年、王弟ディオネル、即位。
 977年1月、エルスランツ勢による戦闘開始。第二次内乱勃発。セルランド、マエント両国の干渉あり。
 980年2月、ハインセック率いるエルスランツ勢による王宮占拠。国王ディオネル、死去。同年、セルランド、マエント両国との和平協定締結。 ハインセック即位。
 982年3月、王妹ディアナ、イースエントより帰国。

 ――そして、物語はそこから始まる。


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