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(一)


 手渡された一枚の紙に、ディアナが不穏な視線を落としている。
 長年付き沿った侍女であるアリアでなくとも判るほど見るからに不機嫌なその表情。入室したときには朗らかな笑顔をたたえていた使者も、今は明らかに困惑した目を泳がせている。
「断る」
 予想通りの断言に、アリアとレンは揃って苦笑した。苦虫を噛み潰したような声音を聞けば、紙に記された文言など知れたものである。
 しかし、使者の方は予想外の事だったのだろう。困惑を動揺に変え、しどろもどろに意味のない接続詞を連発した。やんわりとした美辞麗句に慣れた身分の男だ。誤解の余地も説得の切り口も見あたらないほどはっきりと拒絶されたことなど、今までなかったに違いない。
 加えてディアナには、取り繕うという姿勢すら皆無だった。
「下らん。興味がない。義務もなければ義理もない。強制でない限り今後わたくしがこのような会に向かうことはないので、そう帰って伝えるように」
「し、しかし……」
「くどい」
「しかしそれでは、主人に顔向けできませぬ」
「知ったことか。その程度のことでお前に害を為すような主人であれば、縁を切った方が身のためだと思うがな」
 吐き捨てるように言った後、ディアナは思い出したように口の端を曲げた。
「そういえば、そなたの主の領地、治水工事が滞っておるようだな。馬鹿馬鹿しい宴会に費やす金があるなら数年後の実りの為に投資するべきだと伝えておけ」
「は、いえ、それは……」
「では、去ね」
 とりつく島もないとはまさにこのことだ。
 ディアナが顔を上げてレンを見た。豊かな蜂蜜色の髪が揺れ、室内の空気を変える。心得たように、レンは片開きの扉に手をかけた。よく油の差された扉は、軋みもせずに毛足の短い絨毯の上を滑って開く。
 戸惑う使者が何事か口にする前に、アリアは声を張り上げた。
「使者殿がお帰りです。馬車の準備をなさい」
 扉の向こう、廊下に控えていた従者が慌てたように姿勢を正した。矢継ぎ早に指示を出し、食い下がる暇を与えないよう帰途の準備をすすめる。館の中は急に時が戻ったように騒然と動き始めた。
 使者に上着を着せ、帽子を渡し、実用性のない杖を手に持たせて身なりを整え、最後に大きく一礼。館で働く全員が頭を下げる頃には、すでに玄関の扉が大きく開かれていた。
「気をつけてお帰り下さいませ」
 またのお越しを、などとは口にするわけもない。普通の貴族の家であれば、おそらくこの使者は強烈な歓待をうけたことだろう。帰りには当然、次の来訪をせがまれるのだ。それほど、使者の主人が周囲に与える影響力は強い。何とか縁を結ぼうと躍起になっている輩はそれこそごまんと存在する。ディアナたちの対応の方がむしろ特異なる例外だと言えよう。
 使者の乗った馬車が土煙に紛れると、アリアは大きく背を反らせて息を吐いた。
「誰ぞ、水でも撒いておおき」
 煩わしげに眉を寄せ、ディアナが唾でも吐きかねない様子で言い捨てる。笑いを堪えるように、アリアはただ頷いた。心証は全く同じである。
 そうして、下働きの者に声をかけるべく踵を返し、――一歩、踏み出したところで足を止めた。目の先に映った人物に、ぎよっとして立ちすくむ。
「相変わらずだね」
「殿下」
 その敬称に、ディアナが顔を上げた。レンは壁際によって頭垂れ、その場に居合わせた警備兵が膝を突いて礼を取る。
「ああ、畏まらないでくれ。ここは王宮ではないのだから」
 耳通りの良い声が許可の言葉を紡ぐ。アリアは一度更に深く頭を下げ、その意に従って背筋を伸ばした。無論、来訪者は既に目の前を通り過ぎた後。騎士の服をすっきりと着こなした背中だけを追う。
 歩みの先、椅子から立ち上がったディアナは、片方の眉を上げ赤茶の瞳を見開き、大げさな驚きの意をもって彼を迎えた。
「フェルハーン義兄上。何用です」
「おや、用がなくては来てはいけないとでも?」
 弓なりに細められた眼が、優しくディアナを見る。
「あちこちの舞踏会を断っていると聞いてね。気になって様子を伺いに来ただけさ」
 笑い含みの声に咎める響きがないのを確認して、アリア、もといディアナを除く者全員が胸をなで下ろした。
 館の主人ディアナの行動は、労働階級から見れば実に胸の空く爽快なものである。しかし同時に、貴族社会――既に身分制度は廃止されているが、古い名残でそう呼ばれる――で歓迎されるものではないことも事実だった。いつか反感を買うと恐れている部分がどこかに存在する。
 そんなアリアたちの思いを吹き飛ばすように、ディアナは闊達に笑った。
「義兄上のお誘いとあれば、無粋な真似はいたしませぬよ」
「それは嬉しいね」
「あのような馬鹿げた享楽的な実のない無駄だらけの交遊、制限なさればよろしいのに」
 言いたい放題である。
 フェルハーンは肩をすくめ、だが嗜めることもせずに笑った。
「なに、ああいうことに使うことも、全くの無駄ではないよ。彼らの懐の金が、宴会費用という名前になって多少は市井に返還されているのだからね」
「ああ、――確かに」
「それに、一の門をくぐる商人には、売れた商品に見合った高い通行料を支払って貰っている。その金はちゃんと治水や道の整備に使わせて貰っているから、まぁ、巡り巡って投資してもらっているようなものだと思っても間違いではないだろう」
 あっさりと言い放った言葉に、アリアはぽかんと口を開けた。
 確かに、そう考えれば貴族の主催する派手なだけの舞踏会も、満更悪いものではないと思えてくる。しかし、その制度を正しい形で取り締まるのは簡単なことではない。むやみやたらに商人から税をとれば流通が滞る。それ故に税を取る対象と割合を見極めなくてはならない。利潤がストレートに絡む問題でもあるので、当然汚職に手を染める輩も出てくるだろう。
 適切な税率の設定、対象の選別、役人を管理し取り締まる制度の確立。
 アリアが考えただけでも、気の遠くなるような面倒な管理が必要となる。実際に行うとなればその何倍もの労苦を伴うことになるだろう。ましてや内紛から立ち直ってまだ3年ほど、信用できる人員も役に立つ人材もまだまだ不足しているに違いない。
 ――それを、何でもないことのように言うとは。
 幸いにも、呆れたのはアリアだけではなかった。
「そういう発言をするから、義兄上は狸だと称されるのです」
「褒められていると思っておこう」
 嘯いて、フェルハーンは面白そうに微笑んだ。食えない兄だと、ディアナも苦笑する。
 フェルハーン・エルスランツ・クイナケルス。先代の王の崩御から7年の内乱を経て王座に就いた現在の王ハインセックの実弟であり、ディアナとは母親違いの兄にあたる。先王の序列で言えば第七子、第五王子で、末っ子であったディアナの次に若い。
 眉目秀麗、品行方正、等々、彼を表現する美辞麗句を連ねればきりがないとも言われている。8年前、第一期の内乱で敵対組織に負けたエルスランツの軍勢は、新しく王となった男とその一族の前に領地の没収、一族の離散を余儀なくされた。領主の死、旗であるハインセックの幽閉、半ば焦土と化した領地、それらを抱えて抵抗を続けたのが、現エルスランツ公とフェルハーンである。更に2年後に起こった第二期の内乱で影ながら兄を支え、各地の紛争に駆けずり回り、その悉くで勝利を持ち帰った。
 現在はその剣の腕前と軍の統率力をもってして国内外で勇名を馳せる、王都シクス騎士団の団長である。28歳の若さにして得たその地位を、無論誰もその出自に依るものだとは言わない。
 公平で優しく、勇ましい貴公子――と貴族の令嬢は頬を染めるが、ディアナの見立てではその特徴ある鮮やかな朱い髪の方が「本性に近い」とのことである。とりあえず、どこか一癖あるということだろう、とアリアたちは理解した。
「それで、よもや義兄上がまさか、本当に雑談をしにきたわけでもありますまい」
 少なくとも暇な身分ではないだろう。王宮の一角にあるディアナの館は、そもそもにして区画の違う騎士団領から、徒歩で来られるような気軽な距離ではない。なにせ、王宮を中心とした第一区だけで小さな町ほどの広さがあるのだ。加えて、中央の通りを除けば迷路のように入り組んだ造りとなっており、実際の移動には直線距離の軽く二倍は見積もる必要がある。
 ディアナの言葉にアリアやレンまでが熱心に頷くと、フェルハーンは何度か目を瞬かせた後、僅かに照れたように頭を掻いた。
「いや、本当に大した用はないんだよ。ただ、ひとり館の者を借りていこうと思って」
 訝しげにディアナは眉を寄せた。フェルハーンはれっきとした王族である。誰かの家僕など借りずとも、臨時で人を雇うくらいわけもないはずだ。
 一同の心を読んだように、フェルハーンは苦笑して手を横に振った。
「用を言いつけようというのじゃないよ。ただ、ディアナはともかく、ここで働く者に知って貰った方がいい場所もあるからね。ここに戻ってから3ヶ月近く経つから、そろそろこの周辺の事は覚えただろう? 今まで居た北のイースエントとは色々違うこともあるだろうし、案内しておくべきだと思ったんだ」
「館の者にもそれぞれ仕事はあります。わたくしが行きましょう」
「それは駄目だ。仮にも王族の、しかも妙齢の女性が行く場所じゃない」
 言った後で、それがディアナの神経を逆撫でるものだと気づいたのだろう。
「出しゃばるなとか、そういう事を言ってるんじゃない」
「……判っておりますよ。立場をわきまえろとおっしゃるのでしょう」
「正直、君を呼び戻すと決めた後も少しは躊躇っていたよ。まだまだ国内も安定しきってはいない。そこに10年近く、子供の時から他の地で過ごしてきた王女を戻しても、本人も辛いだけだろうと。――だが、君は私が思った以上によくやってる。上手く立ち回ってくれているから、城や町でもなかなかの評判だ。だからこそ、今はまだ、軽はずみな行動は控えて欲しい」
 彼はやはり、ここしばらく貴族間の外交――先だってディアナが一蹴した舞踏会のような付き合いを、断り続けているのを嗜めに来たのだろうか。一瞬、アリアはそう考えて首を傾げた。隣にいるレンも微妙な顔をしている。
 ディアナとて、全てを無碍にしているわけではない。人脈を作ることも仕事と割り切り、懇意にする意味がないと判断するまでは、結構根気強く対応しているのだ。
 だが、一介の侍女が、そうと口を挟む場ではない。どことなく気まずい、沈黙というには些か短い間を空けて、やがてディアナは苦笑とも微笑ともつかぬ笑みを浮かべた。
「余程手勢が少ないと見える。義兄上も苦労なさいますな」
 アリアやレンの危惧していた事とはかけ離れた返答に、王族ふたりを除く一同は揃って首を傾けた。それを見て少しだけ笑い、しかしフェルハーンは、ディアナに向かって返事を返す。
「そうだね。うん、だから、期待してるよ」
 目を瞬かせて、アリアは兄妹の会話にあるものを解きほぐすべく反芻する。そうして、ここ数ヶ月で叩き込まれるように教えられた国の状況や人物相関、ディアナの立場を鑑みて、朧気にその意味を理解した。
 3年前まで続いていた王位継承問題に絡む内乱は、文字通り血を血で洗う凄惨なものだったと聞く。各陣営が傷つけ合い、落とし落とされ、国内は混乱を極めた。当然、その時代に刻まれた疑念や不信感は、未だ人々の心の奥に根付いている。人々の真意が何処にあるのか、国王はまずそこから諮らねばならない。
 国としては安定してきているように思える今も、まだ水面下では王位と権力を巡っての争いが続けられてる。人が傷つけあう戦争をしているか、裏で駆け引きが行われているかの違いだけで、それほど国王の立場は危ういものなのだろう。
 フェルハーンの言葉は、入国して3ヶ月、ディアナに現政権に対する叛意なし、そして陣営に引き入れるに足りる人物だと判断されたということだろうか。――或いは、亡命していたが故に内乱と深く関わることの無かったディアナを、そもそも味方に引き入れる気で呼び戻したとも考えられる。
 取り巻く状況の複雑さを思い、アリアは短くため息を吐いた。
 国王派の信頼を得ることが、果たしてディアナにとって良いことなのかはアリアには判らない。ただ、彼女が少しでも傷つかぬようにと、願う。
 話を戻すように、フェルハーンはひとつ咳払いをして周囲を見回した。
「堅苦しい話はどうでもいいとして――案内したいのは魔法施設なんだけどね。そうだな。できれば魔法が使える人の方が良い」


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