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[運命の残滓] フェルハーン、アッシュ


 少年は、まだどこか線の細い体には合わぬ、重い鎖を幾重にも巻き付けていた。暗い牢の中、身動きする度に金属の擦れる不快な音が響く。
 汗と排泄物、もともと牢に染みついていた黴の臭いが混ざり合い、フェルハーンは僅かに眉根を寄せた。まるで囚人だ、と思い、苦笑する。――この、憔悴した少年のしでかしたことを思えば、生かされていることの方がおかしいのだ。
「――気分は、どうだ? 何も、食べないそうだね」
 牢の端に転がっているパンを拾い、フェルハーンは少年に歩み寄る。
「その状態で十日間、か。確かに、普通じゃないね」
 一切、物を口にしない状態で人が生きていられるのは、せいぜい数日の話。まず、脱水症状を起こして死に至る。生命力を補助する魔力を潤沢に持つ魔法使いでも、持って五日というところか。だが少年に、そういう意味で危険な兆候は見られない。疲弊してはいるが、捕らえた時と変化があったかと聞かれれば、否と言わざるを得ないだろう。
 鎖に絡めておかなければ、彼はすぐに自殺を図る。自らの魔法で体を切り裂き、壁に何度も額を打ち付けて、――しかし、それでも彼は死ねなかった。頸動脈から噴き上げた血は未だ天井と壁を汚しているというのに、彼の首には一筋の傷痕も残っていない。その他の怪我も、驚異的な速度で治癒してしまった。
 当然だ、とフェルハーンは思う。少年の体から立ちのぼる、目も眩むような鮮やかな朱金の炎を見れば、常軌を逸した生命力の源など、考えるまでもない。
 目の前にしゃがみ込んだフェルハーンを認めて、少年は奥歯を噛み鳴らした。
 そうして小さく、殺してくれ、と懇願する。
「駄目だよ。君は、生きて償わなくちゃいけない」
 絶望に歪む顔。少年にとっては、地獄にも等しい日々となるだろう。今こうして、ただ生きていることさえも、彼には苦痛なのだ。だがフェルハーンは、彼にむざむざ死を与える気は皆無だった。
「――来なさい」
 言って、鎖の端を壁から外す。その、命令に慣れた口調に、少年は諦めたようだった。生気の失せた、それでいて荒んだ色の濃い目をちらりと上げ、よろよろと立ち上がる。
 骨格のできあがっていない体に、幼さを残した貌。数日の内に数え切れないほどの人間を殺した者だとは、誰も思わないだろう。フェルハーンもまた、その現実に関わっていなければ、一笑に付したに違いない。
 頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするようにゆっくりと眺め、フェルハーンはため息を吐いた。この少年もまた、見方を変えれば被害者には違いない。
 だがこのとき、フェルハーンの目にあったものは、憐れみでも同情でもなかった。
 強いて言うならば、それは――

 *

 小競り合いの発端は、よくある領地侵犯だった。巡回中の一隊が、偶然出くわした盗賊を追いかけた先で、気付かぬうちにセーリカ領に入り込んでしまったのだ。
 区切られているとは言え、所詮は同じ国の領地、大概であれば職務熱心という括りに収められ、中隊長レベルの謝罪で済む程度のことである。しかしあいにくと、この時期のエルスランツとセーリカの関係は友好にはほど遠い状態だった。正確に言えば、一方的にセーリカが敵意をむき出しにしている状態、とすべきだろう。もともと、特に依存しあった関係ではなかったため、領民の暮らしにはさほど影響はなかったが、その分、表沙汰にはならない小さな事件は、ここに至るまでにも頻発していた。
 セーリカが、エルスランツにたてつく理由は、分かり易くも単純なものである。領地を並べ、元来エルスランツより豊かな環境を持ちながらも、セーリカには、どうしようもない引け目が存在するのだ。
 セーリカが現国王ホランツに差し出した一族の女は、輿入れした直後に女児を産んだが、その後が続かず、ついには、その姫さえも属国であるセルランドへ降嫁することが決定してしまった。対するエルスランツ出身の女はというと、セーリカの女に先駆けて第三王子を生んだ後、数年をおいて、更にもう一子、男児をもうけている。
 一族の流れを汲む王子王女のいないセーリカと、ふたりの王子を擁するエルスランツ。本来立場が上であったはずのセーリカの矜持を傷つけるには、この構図は充分に過ぎた。
 一触即発、そういった状況の中で起きた領地侵犯の事件は、実に呈のいい口実だったに違いない。更に悪いことに、この時の巡回には、国王の五番目の王子であるフェルハーン・エルスランツが深く関わっていた。
 セーリカの権力者は、頬が緩むのを抑えられなかっただろう。ふたりの王子を擁するエルスランツへの妬みや羨望は、付けいる隙を見つけ、あっという間に攻撃へと変貌した。
 長雨に、両者共に鬱屈していたということもある。話し合いは拗れに拗れ、一個中隊が揃えられる規模の戦闘となるまでに、そう時間は要しなかった。

 
「私は、謝らないよ」
 優しげに整った貌の中、目だけに鋭さを忍ばせ、フェルハーンは隣で馬を進める男に言い放った。おそらくは最後の交渉の場となるであろう、領境に設えられた天幕に向かう途中のことである。
「領の境界線を越えれば、どんな犯罪者も逃げられるなど、あっていいわけがない」
「それは、その通りですが」
「手続きを踏めば互いの領地で同じ犯人を追うことも出来るが、それでは犯罪者に逃げろと言っているようなものじゃないか。そんな現場の事情を脇に置いた法律を振りかざす、セーリカの気が知れない」
 無論、セーリカ側もそれを承知の上でごねているだけだとは、まだ経験値の浅いフェルハーンにも判っている。だが、罵詈雑言を心の中に押しとどめ、表情の上では笑顔を作り、唇は心にもないことを紡ぐ、そう言った腹芸を自然に行えるまでには練れていなかった。
 自分が殊勝に頭を下げれば、それだけでセーリカは満足して譲歩してくるだろう。そう理解していても、感情もまた付いてこない。なまじ、政治的な駆け引きに知識があるだけに、フェルハーンとしては複雑な心境である。
「君にも迷惑をかけているとは判っているんだが……」
「いえ。セーリカの難癖には、いい加減我々も憤りを感じておりました。そろそろ、このあたりで一泡吹かせてやるのもよいでしょう」
 黒を帯びた黄金色の髪が揺れ、藍色の目が細められる。27才になったばかりのエルスランツ騎士団副団長は、その端正な顔に悪戯っぽい笑みを乗せた。当代一の魔法使い、火炎を繰らせれば右に出る者はいないと評判の美丈夫である。隣にあればこれほど力強く頼りになる存在はいないにも関わらず、今のフェルハーンにはその人選が少しばかり胸に痛い。
 彼、ヒュブラ・ロスは、セーリカ側が優秀な魔法使いを配置したという報せを受けて、フェルハーンの護衛にと団長の判断で派遣された人物だった。つまり、事の発端といい現状といい、王族のフェルハーンが関わっていなければ、ここまで大事になることはなく、ヒュブラもまた、騎士団員ですらない者の尻ぬぐいを振られることもなかっただろう。
 それを思えば、フェルハーンもさすがに気まずさを覚える。今更ながらに、王族という身分が疎ましい。
 父王は未だ健在で、上に兄弟が何人も存在する。王位継承が巡ってくる可能性など、ほぼゼロに等しいだろう。このまま、中途半端な王族で中途半端な自由と権力、そしてそれに見合わない過分な重圧を持ったまま生きていかなければならないのだ。
(……それだけじゃないけどな)
 人よりも見えすぎる目が、フェルハーンを更に縛り付ける。どこに行こうと特別扱いを受け、その上異端視される現実は、まだ十代の青年には受け入れきれるものではなかった。
 誰にも判らない、とフェルハーンは思う。普通の人間とは、見えている映像からして異なるのだ。自分と同じ感覚を共有できる者はひとりもいないのだと悟れば、いやが上にも孤独感は蝕んでいく。それでも自暴自棄になることなく、――少なくとも表面上は、穏やかな性分だと勘違いされるほど取り繕う術を身につけることが出来たのは、兄であるハインセックと、誰より親身になってくれた叔父、エルスランツ公の存在が大きかっただろう。
(迷惑、かけるつもりはなかったんだけどな……)
 思い、ため息を吐く。正直なところ、今現在では不条理に対する憤り云々よりも、引っ込みが付かなくなっている、といった方が正しい。
 聡く聞きつけて、ヒュブラもまた苦笑を喉元で転がした。
「気が重いですか?」
「まぁ、――それは、ね」
「では、今からでも遅くありません。セーリカ騎士団長に陳謝すれば、事は収まりますよ」
「……さっきとは、科白が違うな」
「それもまた、事実です。我々騎士団は暴力という名の力を持っています。個人の感情で動いていては、場を乱すだけです。統一された意思の下、理由と支持を持って戦うからこそ、認められるに過ぎない力です」
 フェルハーンの決めることが、何千人もの騎士の行動を左右する、そう暗に告げている。改まったような指摘に、口を尖らせてフェルハーンは、ヒュブラから視線を逸らせた。
 ――何もかもが、煩わしい。時々、全てをやり直すことが出来たなら、と考えてしまうのは、疲れている証拠だろうか。
 ふと向けた視線の先、緊張も顕わな面持ちで、すれ違う徒歩の一団が目に入った。騎士団に入りたてで、まだ馬を貸与されていない新兵だろう。年齢はさまざまだが、明らかに熟練の騎士とは目つきが異なった。正直、百人規模の戦闘を体験するには、些か早い。剣の腕云々の問題ではなく、経験値と精神的な安定が、敵味方入り交じるの戦場では物を言うのだ。
(この中の何人が生き残れるか――……)
 そうしてフェルハーンは、何気なしに目に力を込めた。焦点を、物質でないものに転ずる。そうして人が纏う魔力の質を見て、その人の持つ性質を垣間見ようとした。簡単に言えば、戦場で生き残れるだけの覇気があるかを判別しようとしたのだ。
(駄目だな)
 魔法使いではない故に纏う魔力も乏しい、などといった問題ではない。人間の性質として、活力に満ち気力を蓄えた状態ならば、体を取り巻く気質は輝いて見えるのだ。それが、今の新兵には、全くない。どれもこれも、戸惑いと不安と怯えの色が濃く、萎縮した色を浮かべている。
 ため息を吐き、フェルハーンは目の力を緩めた。普通の人間とは異なる視点でずっと見続けることを、彼は自ら禁じている。若干の疲労を伴うということもあるが、それ以上に、人の悪意や絶望など、およそ見たくもないものまで具現化して見てしまうからだ。思っていることが具体的に判るわけではないが、感情の起伏や質を知るだけでも、気持ちの悪さを覚えるには充分だった。褒めそやしながら侮蔑の気を纏う権力者、口汚く罵りながら噂を巻く者の黒い影、そういった濁りが、特に王宮には充満している。
 それでも、聖眼という能力を完全に封じてしまわないでいるのは、そういったものとは真逆の力もまた、確かに存在するからだった。例えば今、隣を進むヒュブラの持つ真紅に猛る魔力の渦は、どこか硬質の冷たさを伴って、自然界のどれに比すこともないほど美しい。
 好ましげに眺めやったフェルハーンは、ふと、彼が驚いたように目を見張るのを見つけ、その視線の先を追った。
「――おや、珍しい」
「あの初老の男のことか?」
「ええ。現役は引退したはずなのですが……」


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