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 興味を持って目を凝らし――途中で、フェルハーンは力を抜いた。これ以上見たところで、どうなるものでもない。
 近づいてきた男は、馬上のヒュブラに気付き、相好を崩した。好々爺というには少し若いが、人好きのする人懐っこい笑みだ。旧知の者を見つけてほっとした、そういう表情にもとれる。
「やぁ、久しぶりですな、ヒュブラ殿」
「ああ、やはりレダン殿でしたか。こちらこそ、ご無沙汰しております」
 ヒュブラの口調も、丁寧ながら奥底ではくだけて聞こえる。どういった仲かとフェルハーンが首を傾げたのと同時に、レダンの問うような視線が向けられた。
「もしや、こちらは――」
「ええ。フェルハーン殿下です。殿下、こちらはレダン・フェイツ、エルスランツ騎士団で以前、専属魔法使いをしておりました」
「お初にお目に掛かります。なにぶん、自由気ままに過ごしております故、礼儀知らずはお許し下さい」
 気負った様子もない軽い挨拶に、フェルハーンは鷹揚に頷いた。向けられた顔は、笑い皺が深い。有意義な人生を過ごしてきた証拠だろう。
「今日は、どうしてこちらに?」
 不思議そうなヒュブラの声に、レダンは肩を竦めてみせる。
「私の養い子が、騎士団に入団したばかりでしてな。ろくに働いてもおらん内にこの戦、少々気になって様子を見に来たのですよ」
「ほう。――それは素晴らしい」
「いえ、いえ。まだまだきかん気の強い、ひよっこでございますよ。ヒュブラ殿、ましてや殿下のお目にかなう実力など欠片もありません。今の時点で奴をご存じないということは、要するにそこらの新兵となんら変わりがないということですから」
 それもそうか、とフェルハーンは口を挟むでもなく苦笑した。レダンにしても、けして謙遜などではなく本心から言っていることなのだろう。だが、言葉の内容を抜かして見るとすれば、その声音には実に親しみが溢れている。真実、頼りない家族を思いやってきたこと、疑いない。
 二言、三言、言葉を交わし、遜るでも奢るでもなく、ごく自然な素振りのまま去っていった男の背を追いながら、フェルハーンは隣に馬を並べる男の顔を見上げやった。
「相当に出来る魔法使いなのか?」
「魔法レベルで言えば、並と申し上げておきましょう。しかし、知識が半端ではありません。かの高名なミリム・アスタールとも知己であり、エルスランツ騎士団に来るまでは、王都で研究を続けていたそうです」
「何故、ここの騎士団に来たんだい?」
「さぁ、それは……。彼が在籍したのは、今からだいたい十五年前から五年前の約十年間ですが、そういった話は出ませんでした」
「養子がいたという話もなかったのかい?」
「あまり、そういう話はしない方でしたので……。ただ、長期の任務に就くことはありませんでしたから、それを思えば、そのころから子供を養っていた可能性もありますね」
 ヒュブラ自身、あまり他人の私生活に興味を持つ性格ではないこともあったのだろう。フェルハーンの方も、さして取り沙汰にしたかったわけではない。ただ、戦場になる土地にわざわざ足を運びながらも、恐れも気負いもない飄々とした様子に感じ入るものがあったのだ。
 つかみ所がない、しかし、けして不快な印象を与えることもない不思議な気質は、今までフェルハーンの近くには居なかったタイプである。言うなれば、その軽さ――軽薄という意味ではない――に一種の羨望を覚えたのだろう。
「しばらく、ここにいるんだろうか?」
「どうでしょう。わざわざ出向いたのですから、すぐに帰ることはないと思いますが。聞いて参りましょうか」
「いや、そこまでは必要ない。ただ、もしまた見かけることがあったなら、魔法に関する蘊蓄を聞かせてくれと伝えてくれ」
 フェルハーン自身は、魔法を使うことが出来ない。だが、魔力と人との関係には、研究者並みの興味を持っていた。聖眼という己の能力を深く知るためには、魔力という、人の身にありながら、未だ謎の多い力について解明する事が必要であると思っているからだ。
「勉強熱心ですね」
「まぁね。――不安定なのは、好みじゃない」
「おや。私とは違いますね。人とは常に、どこか不安定であると思っていますから」
「完璧にはなり得ないと?」
「ええ。それはもはや、人とは呼びません。逆に、不安定であるからこそ、人は姿を変え、心を変え、移ろいながら己と向き合っていくのでしょう。完璧というのは、そこでお終いということです」
「お前は? 私から見れば、騎士としての理想像に最も近いようだが」
「私ですか? とんでもない。まだまだ未熟者です。そつなくこなしているように見せかけて、裏では冷や汗をかいているくらいですから」
 困ったように笑ってはいるが、半分は謙遜だろう。自分の価値と立場をよく把握している男の表情だ。その評価は非常に正確ではあるが、それ故に自然体になりきれない自尊心の高さが見え隠れする。ヒュブラの場合、自己評価と他者評価が殆ど離れてはいないだけで、この手の人材は、王宮には実に多い。
 慣れ飽きた雰囲気を横に感じながら、フェルハーンは視線を正面に向ける。ゆっくりと進めていた馬は、それでもいつの間にか、目的地にたどり着こうとしていた。
 更なる厄介ごとが待ち受けている――そう、憂鬱に眉根を寄せたフェルハーンの耳朶を、ため息を乗せたようなヒュブラの声が打つ。
「殿下は、何を置いてもやり遂げたいと思うことはありますか?」
「さぁ、どうだろう。今のところ、ゆっくりと魔法の研究でもしたいと思っているが」
「それは、単なる興味ですね」
 言われれば、否定はできない。苦い顔をしたフェルハーンを見て、ヒュブラは少し笑ったようだった。
「そういう、お前はどうなんだ?」
「私、ですか」
 問い返されたことが、少々意外であったらしい。思案するように顎に手を当て、ヒュブラは何度か目を瞬かせた。
 そうして、ゆっくりと口を開く。
「そうですね、私にも、ありません」
 認めて、だが、見知らぬ何かに向けて、憧憬にも似た表情を作る。
「一生を賭けてもいいほどの何かに、出会ってみたいものですね」

 思えばそれは、滅多に聞くことのない、ヒュブラの本音であったのかも知れない。

 *

 戦闘を前にした緊張感の漂う中、少年は一心に己の武器を磨いていた。獣やごく小さな魔物相手に訓練を続けていた彼は、新兵の中では戦い慣れている方であったが、それでも、人と人との争いに身を投じたことはない。
 いやが上にも不安と興奮の昂まる中、言いようのない苛立ちのままに、ふと、少年は顔を上げた。同じように引き攣った表情を浮かべる兵を見回し、転じた視線の先に見つけた顔に、驚いて息を呑む。
「……レダン」
「おう、いよったな」
 ひとり、緊張の欠片もない、むしろ平素よりも楽しそうな笑みを口元に浮かべ、皺の深い手を少年に向ける。
「なんだ、柄にもなく震えておるか」
「っ、誰が。震えてなんかいねーよ。あんたの目の方が、おかしくなったんじゃねぇか?」
「相変わらずかわいげのない奴だな。そんなに口悪く育てた覚えはないぞ」
「うっせぇ。紛れもなく、あんたが育てたんだ。あんたの影響だろ」
 悪態をつきながら、少年はにやりと笑う。
「で、なんだ? 山奥だの何だのには放置したくせに、戦場には気になって見に来たってのか?」
「お前の初陣だからな。そりゃ、心配にもなる」
 あっさりと返された予想外の言葉に、少年は用意していた憎まれ口を喉に詰まらせた。いつものようにあれこれと、くだらない言葉の掛け合いを仕掛けてくると思っていたのだ。軽い口調の中に、真摯な音、そして奥に感じる深い愛情に、咄嗟に返す言葉が出ない。
 意外さと気まずさに見開いた目を養父に向け、彼は手にしていた剣を脇に避けた。
「心配、しなくていい」
「どうだかな」
「大丈夫だ。あんたに預けられた時とは違う。もう、子供じゃないから」
「十五のひよっこが、子供じゃないとな。お前はまだまだ子供だ。正直、もう少し、魔力が安定してからでもいいと思うんだが」
「冗談じゃねぇよ。遅いくらいだ。あんたに、もう迷惑かける気はないから」
 嘘、である。本当は、怖がっている。だが同時に、これ以上、遠い親戚であるというだけのレダンに、厄介な子供の後始末をさせる毎日とは決別したかった。
「……戦場は、お前が思っているよりも凄惨だぞ」
「判ってる」
 レダンは、少年が騎士団に入ること最後まで反対していた。戦場という異常な場には、精神を狂わせる何かがある。その影響を受けやすい少年を、わざわざ前線に送る真似はしたくないと、幾晩もかけて説得された。
 養父の気持ちは判る。だが少年には、正確には少年の能力は、それを受け入れるには戦闘に特化すぎたものだった。穏やかな、静かな場所では持て余すと、彼自身がよく判っている。
 静かな目に出来る限りの反発の色を向けて、彼は短く言い切った。
「大丈夫だ」
 むしろ、その言葉は自分に言い聞かせていたのかも知れない。
 養子の、そして弟子の強い口調に諦めたか、肩を竦め、レダンは深く息を吐く。
「……そうだと、いいのだがな」
 呟かれた言葉は、逆風に煽られ、霧雨の中に吸い込まれていった。

 *

 両騎士団による交渉が完全に決裂するまで、時間は殆ど要しなかった。そもそも誰も、話し合いで解決するとは思っていなかっただろう。霧雨が木々を濡らす夜半、高まった緊張感の張りつめる中、兵の持つ松明が鬼火のように揺れている。
 いつ火蓋が切られるのか。不安気に顔を見合わせる新米騎士はいっそ後方へ配置しようかという話も出たが、結局は却下されることとなった。互いに土地勘があり、どんな場所を狙われるのか知れたものではない、というのが表向きの意見だったが、実際には、エルスランツに弱卒あり、――つまり、大した将はいないとした嘲笑に耐えかねるからだ。
 無茶を言う、とフェルハーンは苦笑を禁じ得ない。しかし、お互い様であるとも言える。号令のかけられた大規模な戦ではないが故に、セーリカの方も、騎士を揃え直したりはしていないようだった。


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