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 *

 やがて季節は移り変わり、歳月は巡る。
 王は斃れ、王子は反逆者となり、血を血で洗う争いが、キナケスを覆い尽くした。エルスランツとセーリカの反目が、小競り合いが、まだ遊びであったと思えるほどの混乱が、誰にともなく降り注ぐ。
 ――七年。
 キナケスの大地、南よりの草原地帯。長きにわたる戦争の決着がつけられたのは、ルセンラークの地名を持つ地域にほど近い場所であった。なだらかな土地に陽の落ちる直前、黄昏が世界を呑み込む、昼と夜との境の事である。
 最終決戦に要した時間は、およそ五時間。劣勢に陥ったディオネルの軍が決戦に選んだ土地と、様々な憶測と対策を講じて軍を整えたエルスランツの軍には、あっけないほどの幕切れだった。
「――ここに、居たのか」
 呼びかけに、振り向く顔。今はもうフェルハーンの背を完全に抜き、少年とは言えなくなった男が、表情らしい表情も持たぬままに、静かにフェルハーンを見つめやる。
「血ぐらい、洗い流したらどうだ?」
「必要ない」
 これまでも、これからも、存分に浴びるのだと。そう語る瞳に、フェルハーンは舌打ちを禁じ得ない。
 だが同時に、彼をこんなふうにしてしまったのは自分だと、痛いまでの自覚もある。
「見ていて、楽しい光景でもないだろう」
 男の眼下には、累々と横たわる死体の山。そしてそこから流れるものにより、朱く黒く沈み込むように染まった大地が広がっている。動く人影は彼らの他にはない。風に煽られた旗が力なくたわみ、僅かに残った炎にくすぶる草花が、か細い煙を上げる。
 フェルハーンに背を向け、男は藍に呑み込まれる空を見上げたようだった。
「容赦なく、やったな」
「あんたが立てた作戦で、あんたの指示した通りに動いただけだ」
「戦場など、――あれ以来だろうに、たいしたものだ」
 勿論、称賛ではない。放り出された戦場、まさにその激戦の場所で、男は眉一つ動かさず、正確無比に命令を実行した。人の入り乱れる最前線、馬すら与えられぬ一兵卒として参加した彼は、瞬く間にその場を支配したと言っても過言ではないだろう。彼にそれを命じたフェルハーンが背筋を冷たくするほど、彼の強さは圧倒的だった。
「今更」
 ぽつりと、男は呟く。困難を極めるはずであった最終決戦を、あっけなく終わらせた男は、ただ、あくまでも素っ気ない。敵の大将を、ディオネル王子を手にかけたときですら、彼は、何の表情をも浮かべてはいなかった。
 それでも、彼が死の色を濃く残す戦場に佇んでいるのは、さすがに、戦勝に浮かれる本陣には、行く気になどなれないからだろう。
「――それで」
 促すように、男は振り返る。灰色の目が、静かにフェルハーンを射貫いた。
 いつか死に至る、その戦いの場所を求めている。そう感じとり、フェルハーンは僅かに眉を顰めた。
「今はまだ、処遇は決まっていないよ」
「そうか」
「好きに、してもいいんだけど」
 持て余す魔力を、彼は充分に制御できるようになったはずだ。間違った方向に進んではしまったが、彼は二度と、自らの意志で魔法を暴走させることはないだろう。フェルハーンが望んだ以上の自制心を、彼はもう持ち合わせている。
 フェルハーンもまた、無駄に年月を過ごしたわけではない。内乱に身を置くうち、自分の心奥深く巣くっていた劣等感や孤立感は、消えそうなほどに薄れていた。人と笑い人と泣き、怒りや屈辱や、そんな感情に多く触れたことで、フェルハーンは人という心の複雑さに、一歩身を引いて眺め、感じる余裕を身につけたのだ。
 身勝手な話と承知の上で、今は男が、自由に生きてくれればとすら願っている。
 だが、しばらくの沈黙の後、男は緩く首を横に振った。
「俺は、自分のために生きる気はない」
 僅かばかり落胆を浮かべ、フェルハーンは男を見上げた。逆光に黒く映る影、しかしそこに、細い少年の面影は、ない。
「今でもまだ、死にたいと思ってる?」
「――忘れたことは、ない」
 静かで、あまりにも深い声。男の心は、あの暗い石牢の日から、一歩も動いてはいない。
 顔を顰めたフェルハーンに、彼は、淡々と言葉を重ねた。
「あんたは、光の下を行けばいい」
「……」
「泥は、全て俺が引き受けよう。あんたは正道を行き、俺が摘んだ未来以上のものを、切り開いていけばいい」
「私を、護ると?」
「俺は、殺し、破壊することしかできない」
 そう、フェルハーンが教えた。生きることを強要したのは、他の、誰でもない。
 因果、とフェルハーンは苦い笑みを口元に浮かべて目を伏せる。だが、今もしも、あの時に戻れるのだとしても、結局は同じ道を選ぶのだろう。それは理性や論理とは別のところで、愛情や友情とも違う感情で、正直、フェルハーン自身にも、何故、男に生きていて欲しいと思うのかは判らない。
 ――強いて言えばそれは、憧れに近いのだろう。
 再び男を見上げ、フェルハーンは口を開く。
「名前、教えてくれないか?」
 男は、不思議そうにフェルハーンを見遣る。
「本人の、口から聞きたい」
 答えになっていないと言いたげに、男は眉根を寄せる。だが、彼にも思うところがあったのだろう。短い沈黙の後、諦めたように緩く頭振った。
「アッシュ。アッシュ・フェイツ」
 運命の残滓。ずっと、知っていた。何とも皮肉な、その名前。
「では、アッシュ・フェイツ」
 七年、いや、八年目にしてようやく口にした名前に意味を込め、フェルハーンは真っ直ぐにアッシュに向き直った。
 ――変えられない事象、その後に、彼の存在がもう、彼にとっても意味を成さないものになってしまったとしても。
「君は、私の元で生きてもらう」
「……今までも、そうだっただろう」
「だけどせめて、護るものは自分で選べ」
 瞠目。そして何事か言いかけた男を制し、フェルハーンは言葉を重ねた。
「いつか君が少しでも、生きていたいと思えるようになったら、そう、思わせてくれた人を護るんだ」
「そんな奴は、もう、いない」
「君は生きている、未来が、残っている。いつ、その時が来るかは判らない。だけど、その時のために、君の持つ唯一の命というものを残しておくんだ。私なんかの為じゃなく、君が命を捧げる相手は、君が望んだ人に」
 いつか、冷たい石牢から、彼自身を灼き尽くす程の炎の檻から、当たり前のように連れ出してくれる人が、きっと。
 全てを否定する視線を受け止めながら、フェルハーンは祈るでもなく、そう思った。
 ――それが、自分でないことを知り、その事実に胸を痛めながら。



 そしてそれはまだ、未来の話。
「……今でも、死にたいと思ってるんですか?」
「まぁな」
 頷き、しかし男は言葉を続けるのだ。
「だが正直言えば、今は少し、足掻いても良いかとも思ってる」

了  おまけ(絵です)

本編22話のアッシュの説明と違うところがありますが、わざとです。
あちらはあくまでアッシュ(新兵)からの視点で、こちらが事実、ということになります。
*Ash(灰) Fates(運命の複数形)。運命の灰、転じて(自己解釈で)運命の残滓。


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